キング関口台スタジオのエンジニアを取材
50年のときを経て、麻倉怜士がザ・ピーナッツに出会う
2015年06月14日 文● 小林久 語り●麻倉怜士
録音スタジオで1960年代の貴重なスタジオマスターを聴く
キングレコードに行こう!! 麻倉先生から突然そんなメールが舞い込んできた。
いわく最近リリースされた音源を聴いていたく感動したので、その制作過程を
より深く掘り下げたいのだという。
当時の収録は当然のようにアナログ。しかも、編集もシンプルで、歌い手と伴
奏が「いっせいのせ」で演奏したものをその場で収録するスタイルだったはず。
そんな現場の臨場感や歌い手がこめたニュアンスが、DSDになって驚くほど
鮮明に現代によみがえってきたとおっしゃるのである。
確かにハイレゾ化は最新録音だけでなくアナログ時代のアーカイブに対しても
効果がある。だから過去のマスターを聴きながら、DSDの真価を探ってみよう
というのがこの企画。
キングレコード ライツ事業本部 配信営業部の小林力さん、キング関口台スタ
ジオ マスタリングエンジニアの安藤明さん、矢内康公さんにお話を伺った。
50年以上のときを経て蘇った、アナログマスターの音は驚くほどみずみずしく
豊かな輝きを秘めていた。(編集部)
キングレコードの豊富なアーカイブがDSDで蘇る
麻倉 昨年からDSD版の配信が始まった、ザ・ピーナッツの音源を自宅で
聴いて、大変すばらしいと思いました。そこで思い立ったのがこの取材です。
制作のプロセス、そして大本となるアナログマスターと実際に聴き比べながら、
DSD版の魅力に迫っていきたいと考えています。
小林 ありがとうございます。弊社(キングレコード)ではこれまでも、2013
年5月ごろから、ドイツ・シャルプラッテンレーベルなどクラシックを中心に、
ハイレゾに取り組んできました。
今回の“ハイレゾ・ベストコレクション”は、キングレコードが厳重に保管し
てきた過去の貴重なアナログ音源を、オリジナルのアナログテープから直接デ
ジタル化して配信する試みで、昨年12月24日から過去のアーカイブを本格的
にハイレゾ化し始めています。
麻倉 キングレコードが持つ膨大な邦楽のコンテンツのハイレゾ化に踏み切っ
たのですね。第1弾は4タイトルとなりましたが、ついに本流のコンテンツの
ハイレゾ化が始まるということで、大いに期待しています。
小林 いい反響もいただいています。今年度は年間計画に基づいてシリーズ化
し、毎月配信を続けております。お聴きいただいた、ザ・ピーナッツのほかに
も岸洋子さんですとか、倍賞千恵子さんの音源を扱いますし、+αとしてアイ
ドルの音源も手がけております。
麻倉 第1弾の配信音源はどういった基準で選びましたか?
小林 まずは通常の配信で人気のあるものが中心になっています。今後はコレ
クションと銘打ち、体系立ててハイレゾ化していこうと考えています。
麻倉 こういった音源をDSDで聴くと、当時が非常に生々しく蘇る印象です。
音源自体は昔のものをそのまま使っているわけですが、最新の技術と最新の機
器で聴くと、当時にはない発見があって、新鮮に感じます。
アナログマスターととても相性がいいDSD
麻倉 フォーマットにDSDを選ばれた理由についても教えてください。
小林 元がアナログマスターなので、一度DSDにしてから必要に応じてPCM
などにコンバートしていく形がいいと考えています。
麻倉 配信では5.6MHzですが、デジタルマスターも同じ品質なのでしょうか?
小林 当時は音の良さに加えて、実質的に最高峰の5.6MHzを選択しました。
今後は状況をみながら11.2MHzに取り組みたいです。
麻倉 DSDでサンプリングレートを2.8MHzから5.6MHzに増やすと、音に明
確な違いが出てきます。2.8MHzでは少しまったりするというか、地味な感じ
もあるのですが、5.6MHzになるとそれこそピカピカするような切れ味が出て
くる。
小林 おっしゃるように「5.6MHzはピカピカだぜ」と、感じる人間も多いで
すね。まずはなるべく高いサンプリングレートのDSDでデジタルマスターを
作っておき、配信の形態や商品のフォーマットによって変換していくことにな
ると思います。
実は古いほうが状態がいい、アナログマスターテープ
麻倉 デジタル化のプロセスについて教えてください。アナログ録音したマス
ターテープから直接デジタル化する手法を取られていますが、気になるのは使
用されるテープに劣化などがなかったかという点です。
安藤 意外に感じるかもしれませんが、実はテープは年代が古いもののほうが、
問題が出にくいんです。ご存知かもしれませんが、1980年代前半に作られたマ
スターテープには磁性体がポロポロと落ちてしまう不具合があります。磁性体
を定着させる作業を経ずに再生するとテープの走行が不安定になったり、痛み
やすくなったりします。これより前の年代のテープにはこうした問題がありま
せん。
麻倉 なるほど。1960〜70年代の音源ですが、当時、テープは手貼りで編集さ
れているんですよね?
安藤 はい。ザ・ピーナッツに関しては、ちょうどマルチマイク方式(複数の
マイクからミキシングして2チャンネルを作る)を使い始めたころだと思いま
すが、これはまさにミキサールームで演奏を聞きながら卓を調整し、その場で
左右2チャンネルにミックスダウンしていく手法で録音されています。ですか
ら途中に直しを入れる場合も、(別テイクのテープの録音から)切り貼りして
対応しています。
麻倉 その直しにはスプライシングテープを使用すると思いますが、マスター
用のテープとは別素材ですよね。「編集点が経年劣化する」といった問題はな
いのでしょうか?
安藤 糊が乾いて剥がれてしまうといったことはあるのですが、つけなおせば
いいのでそこは大丈夫です。ちなみに、グランドマスターと呼ばれるテープは
ひとつだけで、リールの色を見ることで区別できます。
エンジニアが気に入らないと言って録音しなおした場合では、それを廃棄する
のが原則ですから、マスターはダブらないように管理されていますね。
麻倉 さすがというか、老舗ならでは。こういったマスター音源のマネージメ
ントも優れていますね。マスターテープはどちらに保管されているのでしょうか?
安藤 スタジオの一角に専用の保管庫があって、そこにマスターテープを収め、
系統立てて管理しています。先輩方の努力の結果と言えますが、録音順に単一
の番号が振られており、アーティスト別でも簡単に見つけられるよう整理され
ているので、今回のように後の時代に再利用するといった場合でも探しやすい
ですね。
麻倉 こういった蓄積があるから、新しいフォーマットが脚光を浴
びた際にもすぐに対応できるわけですね。そして今回のハイレゾ・ベストコレ
クションのような企画を通じて、こうした過去の資産をデジタルで改めてアー
カイブしていくことになるのでしょう。
ハイレゾ・コレクションで使用したデッキは
Telefunken製とSTUDER製
麻倉 デジタル化の過程に話を進めたいと思います。この部屋(第4マスタリ
ングルーム)には、定番オープンリールレコーダーの「STUDER A820」が置か
れていますが、資料によると「Telefunken M15A」も使われているようですね。
安藤 はい。部屋によって設置されている機材が変わります。STUDERのデッ
キを置いていますが、ザ・ピーナッツのマスタリング作業を実施した第2マス
タリングルームには、Telefunken M15Aが設置されています。
麻倉 マスターテープを録音したデッキは分かりますか?
安藤 詳細はわかりませんが、当時のレコーディング環境を考えると、近いの
はおそらくTelefunkenだと思います。まだM15Aという機種ではありませんで
したが……。
麻倉 A820とM15Aではどういった部分に違いが出るのでしょうか?
安藤 音質について好き嫌いを含めてコメントすると、STUDERはきれいで美
しい音、Telefunkenは力強い音ですね。第1弾配信の楽曲は全部M15Aを使っ
て再生した曲をデジタル化しています。線が太くて私は好きなデッキです。
やはりマスタリングもアナログの世界で完結したい
麻倉 デジタル化する際には、フラットトランスファー(そのままイコライジ
ングなし)ではなく、イコライジング処理を施しているのでしょうか?
安藤 はい。これは私自身の考え方でもあるのですが、エンジニアの気持ちに
立つと、マスターテープに収録した音源にも「ここはもう少しやりたかった」
と感じる部分がきっとあるはずです。そこを汲みとって、最適な加工を施しつ
つ、「現代のハイレゾ環境だったらきっとこうしたに違いない」というものに
していきます。このマスターテープの音を多少アジャストするために、イコラ
イザーは必須です。
麻倉 当時のエンジニアの皆さんとは、お話もされたのですか?
安藤 実際に面識のあるエンジニアの方々も多くいるのですが、すでに亡くな
られていたり、引退されている方が大半でしたので、今回は声をかけていませ
ん。音源を聴き、自身の感性でよりよいものになるよう取り組んでいます。
麻倉 繰り返しになりますが、ザ・ピーナッツのDSD音源は、大変音が良か
ったです。これは2チャンネル同時録音の大きなメリットなのではないかと思
いますが、バックが立っていて明瞭です。実にクリアーに再現できている気が
します。
安藤 ここは先輩のミキシング技術のなせる業ではないかと思っています。
麻倉 『恋のバカンス』を聴いて感じたのは“同質性”というか。
双子の歌い手ということで、声の音色がよく似ているのですが、ユニゾンで歌
えば、やはり二人の声色にはほんのわずかな違いが出ます。このちょっとだけ
という部分、たとえば9割同じだけど10%だけ違うというのがDSDではよく
分かった。ここに感動したのです。たとえばザ・ピーナッツの音源をイコライ
ジングした際のポイントは何でしょう?
安藤 (今回の仕事では)録音した場所も録音時期も異なる音源を寄せ集めた
ものになるため、具体的にどういう処理をするかは、曲ごとに異なります。ひ
とことで言い表すのは難しいのですが、私のやり方としては、実際の作業に入
る前にできるだけ多くの曲を聴き、最大公約数を求めるところから始めます。
その上で、ザ・ピーナッツの曲が好きな人なら、ここを求めたいと考えるだろ
うと想像して、足したり引いたりしながらトータルのバランスをならしていく
ようにしています。
麻倉 イコライジング処理はアナログなのですか?
安藤 ここはエンジニアの好みもありますが、私はアナログの音源を取り扱う
のであれば、アナログの世界で完結したいと思っていますし、アナログのイコ
ライザーのほうが意図を示しやすいのではないかと考えています。今回はPCM
ではなく、DSDへの変換ということもあって、デジタルのイコライザーが使え
ないという側面もあるのですが。処理はコンプレッサーを含めてすべてアナロ
グです。アナログの信号をMERGING社純正のADコンバーターにてデジタル
化し、それをPyramixに入れて記録する流れですね。
エンジニアの知見がいっぱい詰まった、キングレコードのアーカイブ
麻倉 それでは実際の音を聞かせて下さい。まずはザ・ピーナッツの『恋のバ
カンス』からお願いします。
安藤 ザ・ピーナッツの録音は昭和38年の2月5日です。場所は文京公会堂。
当時は収録するスタジオが埋まっている場合などに、ホールを使うことも多か
ったようです。マスターテープを聴くと、人工的なリバーブ処理が施されてい
るようですが、ホールの響きが多少残っているようにも感じます。
ちょっと話が反れますが、こういったホールで収録する際にトイレを締め切っ
てスピーカーや機材を持ち込んでそこでエフェクトを入れたこともあると先輩
に聞いたことがあります。この録音がそう、というわけではないのですが。
また当時は、電源事情もあまりよくなかったので、マスターテープの裏面に録
音したときの電源周波数が書かれています。この音源で言うと47Hz。この数字
に合わせれば、後から正確に再生できる。こういった細かな情報も担当したエ
ンジニアが残しているのです。
麻倉 非常にしっかりとしたアーカイブですね。とても興味深い話ですね。
もう1曲お願いします。
安藤 それでは6月に配信が始まる、倍賞千恵子さんの「下町の太陽」をかけ
ましょう。少しテンポが速いと感じるかもしれませんが、もともとはモノラル
で収録された音源で、それを聞きなれているからだと思います。今かけている
のはステレオで収録した3度目ぐらいの録音になりますね。
麻倉 アナログマスターとDSDを聴き比べると、DSDのほうが全体にブライ
トな感じになっているのが分かりますね。これはイコライジングによるもので
しょうか?
安藤 いやでも意識してしまう部分ではあります。多少現代風にしたいというか、
みんながそういった音を期待しているのだろうと。
麻倉 ただしこうしたシャープさを感じる一方で、アナログ的な音でもあり、
きつくなりすぎない点がいいですね。
1960〜70年代のアーカイブだけでなく、11.2MHzの新録にも意欲
麻倉 最後に今後の配信予定について教えてください。
小林 ハイレゾコレクションは、毎月の1回のリリースを予定しています。
時代で言うと1960〜70年代の録音が豊かですから、そこを中心にベスト版を
編成していこうと考えています。将来的には、個別アルバムのリリースやコン
ピレーションなどもありうると思います。
麻倉 切り口によるオリジナリティーも出せるわけですね。
小林 ハイレゾの浸透によって、業界やリスナーの間でも、こうした過去の音
源が見直されている面があります。私自身も過去のアナログマスターは非常に
すばらしいものだと思っていますし、こうしてアナログマスターを聴き、改め
てDSDを聴くことで、数多くのサプライズがあります。収録方法からして、
今ではほとんどできない一発録りですし。
麻倉 ザ・ピーナッツ、倍賞千恵子さんと聴きましたが、いずれもたいへん豊
かなニュアンスがあって、表現力の豊かさを感じさせますよね。そして今回は
アーカイブをDSD化するお話でしたが、DSDによる新録音にも大いに期待し
たいところです。
小林 DSD録音という意味ではジャズ系のアーティストの企画が控えています。
ドラマーの大坂昌彦さんはDSDの録音にも造詣が深く、11.2MHzの意欲作に
なります!
麻倉 本日はありがとうございました!
楽曲を試聴して〜麻倉怜士
ハイレゾを再生できる環境が普及する中、配信する音源も多様化しています。
その中でも、過去にアナログで収録された音源を、改めて高品質にデジタル化
することには、大きな意味があります。アナログマスターの中には、録音した
時点で、アーティストの最高のパフォーマンス、そしてエンジニアのこめた
最高のニュアンス情報がこめられています。キングレコードはその情報をくま
なく引き出すことへのこだわりを徹底していることに感動しました。
国内レーベルであり、オリジナルマスターを直接扱えるというのも大きな利点
です。海外レーベルの音源の場合、それには国内で直接触ることはできず、
デジタルコピーをマスタリングして配信することしかできません。
ハイレゾ・ベストコレクションでは、録音した当時と近い、TelefunkenやSTUDER
製のデッキで本物のアナログマスターテープを再生し、その場でDSD化して
います。
この際フラットトランスファーするか、イコライジングをかけるかという2種
類の選択があるのですが、キングレコードの場合、当時の歌声、そして作品に
込められた芸術性を現代に甦らせるためには、イコライザーが必要だと考えて
います。完成したDSDのマスターとオリジナルのマスターを比較してみると、
オリジナルのよさはもちろん引き出しつつ、これに現代的な風味が加わった印
象ですね。
今回は2曲聴きました。まず『恋のバカンス』は、最初に自宅で聴き、非常に
驚いて、この取材を思い立った印象深い作品です。大変有名な曲なので、過去
にレコードやCDで何度も聴いていたはずですが、簡単に言うと、これまでの
イメージとはまったく違う音が自宅のシステムから響いてきました。言ってし
まえば、過去に聞いたレコードやCDの音はなぜか厚化粧で、再発時に演歌や
ポップス向けのイコライジングが施されていたのかもしれません。これが本格
的なシステムでは違和感を与えるものでした。しかしDSD版ではそれがなく、
コーラスはクリアーでバックも演歌やポップス的な過剰な風味がありませんで
した。
キングレコードの関口台スタジオでは、STUDER A820を使い、アナログマス
ターの音を聴きました。その再生では、透明感や質感の高さに加え、空気感も
リッチで、音場の位置関係やダイナミックレンジの広さなど、オーディオ的な
意味でのクオリティーの高さも感じました。まさにマスターであり、これまで
のレプリカとはまったく違う次元を超えた透明感と実在感が共存しているとい
う感想です。
音源は昭和38年に文京公会堂で録音されたものだそうですが、ユニゾン、そ
してハーモニーの美しさはひとつの聞きどころです。双子ならではというか、
同種の声質の二人が同時に歌う声の微妙な違いや複雑性を感じます。そのニュ
アンスに加えて、弱音のやさしさと強音のハリというレンジの広さもあります。
これがDSD5.6MHzになると、この基本線を保ちつつ、もっとリッチで芳
醇な響きとなり、音に体積感や音場感が得られるようになってきます。これは
(イコライジングによる)あからさまというほどの違いではないのですが、や
はり違っていました。ボーカルはよりブライトになり、音の力感がくっきりし
ている。しかし大事なことですが、デジタルっぽさ(つまり強調感や冷たさ)は
なく、明晰化しても、アナログ的なヒューマンな響きを維持している。逆に言
うと、よりストレートな音にしたのがマスターと言えます。
倍賞千恵子の『下町の太陽』は、当初のシングルはモノラル収録で、配信の音
源は3度目のステレオ録音だそうです。マスターからしてグロッシーで、リバ
ーブも適度にありリッチな印象です。マンドリンをフィーチャーしていて弦を
はじく音の楽しさなども感じられます。ベースラインは単純ですが、切れがあ
って、こんなところからもさすがマスターは違うと感じてしまいました。
取材では、マスターテープで再生中の音をリアルタイムでA/D変換する現場に
立ち会うことができました。すでにアナログのイコライザーの設定は済ませて
あり、作成したDSDファイルはそのまま配信に使われるそうです。
できたてのほやほやのDSD版の音源はマスターテープに、明確さと華やぎが
加わり、元のリソースに含まれていた情報量はキープしつつも、華麗でブライ
トな質感と輪郭感が加わった印象です。一方でDSD5.6MHzというフォーマッ
トの持つ、アナログに近いよさが十全に出ているのを感じる音源でした。