「いじめ」の問題を考える/2006年の日記帳より


「いじめ」の問題が深刻化している。
「いじめ」なんかに無縁の人は幸せであるが、私には他人ごととは感じられない。
小学生の時はクラスで一番のいじめの標的だった。
憶病者で気が弱いものだから、年中泣かされていた。
弱虫の私がすぐ泣くものだから、それが面白くてやってたのだろう。
私が泣くまで徹底的にやられるのだから始末が悪かった。
5年生くらいで、そういうものは収まったのだが、本当に学校がイヤだった。
成績は50人余りの中でいつもトップクラスだったから、勉強がイヤというわけ
ではなく、いじめられるのがイヤだった。
気分的な問題なんだが、それが体調へも影響し、朝、学校へ着くなり吐いたり、
急激な腹痛に襲われたりした。一年中ビクビクしていた。

今でもそうなのだろうと思うが、学校の先生なんてものは大概ダメな人間がなる。
いわゆる「でもしか先生」が大半である。
まともな企業に就職出来ないから、先生にでも……先生にしか……なんである。
おまけに「いじめ」なんていう問題意識用語がない時代だから、いじめられる方が
悪いに決まっているという時代だったのだ。オーバーではない本当のことだ。
知恵遅れの子や身体の不自由な子は差別されるどころか、悲惨な程に虐待されてた。
先生も身から出た錆みたいに放置して、学校へ来ない方が有難いと顔に出していた。
そんな時代が昭和だったのだから、今が悪くなっているのではない。それが問題だ
と弱者の立場を考える余裕が出て来た良い時代になってきたのである。

体育の時間が最も辛かった。私は普通の子が出来ることが9割以上も出来なかった。
出来ないからといって先生は許さない。出来るまで教えるというなら話はわかるが、
出来ないことを徹底的に辱めるのだ。わざと一人でやらせるのだ。恥をかかせては、
クラスの笑い者にして、どうだ面白いだろうと他の生徒の人気を集めるのだった。
それでは通信簿は「1」かというと、そうは出来ないのだ。保健・体育だったから、
保健の成績が良ければ「3」にしかならない。先生は悔しかっただろうな。
5年生の時は、これだけが「3」で、あとは全部「5」だった。
6年になったら、担任が変り、もっとあからさまヤツになって、無理矢理に成績を
落とされた。金持ちのPTA役員の子が二人いて、色々とプレゼントをもらったり
していたので贔屓してやらなきゃダメだから、私の「5」は5科目に減ったのだ。

直接いじめるヤツはあまり悪党じゃなくて僻みっぽいコンプレックスの固まりの
ような情けないヤツが殆どだった。精神面での発達が遅れている馬鹿なんである。
今だって同じようなものだろう。賢い人間はいじめなんかやりゃしないのだから。
だから、いじめられた方が自殺をするなんて、とんでもないことだ。
私も悔しい思いは幾度も味わったが、悪いのはこっちじゃないし罰を受けなければ
ならない立場ではないのに何で自分を死刑にしなきゃならないんだ。
だから、いつかはどんな陰湿な手段でもいいから仕返しをしたかったが、自分を
追い詰めるようなことは理不尽だからしなかった。

これだけは、苛められている人に言いたい。自分を大切にしなきゃいけない。
なぜ被害者がもっと悲惨な目にあわなきゃならない。理屈が通らない。
いじめを回避する一番の特効薬は、クラスに友達を作ることだ。
たくさんは要らない。一人だけでもいいから親友に近いほど仲良くなることだ。
今はもっと人数が少ないだろうけど、昔は50人以上いたのだから気の合うヤツは
必ず居るものなのだ。友人が一人いるだけで、もういじめには逢いにくくなるんだ。
それと、いじめられたら大騒ぎした方がいい。
私は、ワアワア泣いて、廊下へ走り出したり、家に帰ったりした。
これはヤバイと相手も思う。何度か繰り返すと先生もほっておけなくなる。
いじめがあったぞ、と、高らかに宣伝しちゃうのだ。その方がいい。

中学生にもなって、いじめなんかするなんて、知能が人間の水準に達していない。
現代の子はそういう意味でいつまでも成長出来ていないのかも知れない。
既に小学生の高学年で収まっていたが、中学生からはいじめからは無縁になった。
生徒会の役員になってしまったからだ。
友人が私をもっと積極的な人間に変えるんだと一念発起してクラスをとりまとめ、
選挙運動なんかやって生徒会副会長にされてしまった。後で会長にまでなった。
そうなると、いじめは不可能になるんだ。
ある日、私の靴箱から何故か靴が出せない。なんとスニーカーが釘付けになってる。
一般生徒ならこれは泣き寝入りだろうが、生徒会顧問の先生に見てもらった。
さあ、翌日の職員室は大変な騒動になっていた。犯人グループが捕まったのだった。
職員室の床に正座させられて竹刀で猛烈に殴られている。まるで軍隊のようだった。
一生徒に対する悪戯では済まない。生徒会と学校に対する挑戦と受取られたのだ。
虎の威を借りた狐のようではあるが、いじめは自分でなんとかしなきゃダメなんだ。
とにかく自分を責めるのが一番いけない。他の対抗手段を考えよう。


今朝のサンデーモーニングという番組中の「風を読む」コーナーで教育の問題を
とりあげていた。
これは昨今始まった問題ではなく、永遠の課題なんだと思う。
とにかく、親が学校に期待すること、子供が望んでいること、教師が考えている
こと、政府が意図していること、それらすべてが異常なことを理想としている。
矛盾ばかりの目標に向っているのだから、ますますおかしくなって当然なのだ。
私が子供のころから、ずっと変だったのであって、急に異常化したんじゃない。

学校なんてものはもっとシンプルなことを目標としているはずなんだ。
義務教育という言葉が示すように、中学校までは人間として生きていく上での
基本的な学習をさせて、本人や家族がどう反対しようとも強引にでも基本的な
教育を施さねばならない。たった、それだけのことなんだ。
団体生活でのマナーを身に付け、基礎的な学問を学ぶ。それだけのことなんだ。
何が不得意で、何が得意なのかも、理解して、自分というものがわかることも
その中で自然と個性が芽生えることにもなる。
散々にいじめられたけど、それも修行のひとつ。そういうヤクザもののような
生徒も先生も現実に居るということと、自分との折り合いをつけることも勉強だ。

自分がいじめられた経験があるし、赤ちゃんの時から娘を観察していると自分と
同じ憶病者だということがわかり、これは同じようなことで悩むことになるなと
思っていたから、授業参観などの後の面談で先生にどうなのか聞いてみた。
休み時間などみんなと遊ばないで一人でお絵書きなんかしていますが、それはね、
個性だと私は思っているんですよ。その行動や生活姿勢には何も問題はないです。
これが先生の感覚で、へぇ〜と私は思った。昔なら問題児扱いだったはず。
いじめに遇ってないですか、と問うと、あははは……と先生は笑って、言った。
あんなに自己主張をはっきり言う子は珍しいくらいです。そういう子は絶対に
いじめの対象にはなりません。ご安心ください。だってさ。

私の時代は徒競走なんてのは単純に背の順で区切られて、よ〜い、ドン、だった。
それが今は、走行タイムで区切って、差が顕著につかないように配慮されている。
おまけに一番でゴールしたからといって賞品なんか出ないらしい。

随分と運動音痴の子に優しい時代になったものだと呆れるばかりである。
私は徒競走は万年ビリだった。
ある時、一人が転んだのだが、その子が立ち上がるまで待ってて、やはりビリを
走っていたという母の証言もある。そんなだから、父はもう来なかったし祖母が
お昼のお弁当の時間になるころやってきた。
このお昼の扱いも近頃は変化していて教室で給食を食べるらしい。
これは全員の父母や祖父母がお弁当を持って参加出来るとは限らないからという
理由らしい。細かな配慮をするようになったものだ。

驚いたのは娘が中学生の時、男女混合の「騎馬戦」なんかがあったこと。
男女平等という校長の基本方針で、女生徒もこれをやらされるのである。
これが教育の指導者の考えることなのか、と、私は唖然とした。権利が平等なので、
同じ事をすることが平等なんかじゃない。こんなことが大学も出てわからんとは!
幸い怪我した女の子はいなくて良かったが、どうせ、いつかは大事に至るのだ。
それで非難されて止めるに決まっている。事件が起きなきゃ気がつかぬ大馬鹿者だ。
いちおう、私は担任の先生には言っておいた。女生徒の騎馬戦はやめさせなさい。
そもそも騎馬戦とか棒倒しなんて競技はスポーツとはいえない。
学校でやる運動会の主旨から考えて、観客の受けなんて狙ってはいけない。
安全第一で即刻やめた方がいいですよ、と言ったら、その先生も同じ意見だった。
校長たち前時代的大馬鹿者の老人パワーに屈しているようであった。

もっと呆れたのは、卒業式だ。
国歌斉唱・国旗掲揚で、ご賛同頂ける方は御起立願います、と、きたもんだ!
私はもちろん、起立して、国歌も堂々と歌ってやったぞ。
ここは教育の場である。
あの国歌、あの国旗のせいで、日本は侵略戦争を引き起こしたという論議は結構。
それを論じるのは、この卒業式ではないのだ。
「決められたことは守る。その大切さ、「協調性を学ぶ」その意図を学習すること
が教育の基幹である。個人の思想の自由とこれとは別物である。

個人の自由に何でも好き勝手に振る舞って良い、そんなことは絶対に許されない。
日の丸を国旗と認めない自由なんて存在しない。君が代を国歌と認めないのも同じ。
そんな自由を認めたら、教育も日々の生活も成り立たなくなってしまう。
学校へ生きたくない意志の尊重。教えたくない意志の尊重なんて認めてどうする。
イヤなヤツを殺す自由。欲しい物を盗む自由。強姦する自由。それと同等のことを
教育者自らが肯定している。国歌斉唱・国旗掲揚へのテロ的破壊活動を行っている。

東京都だったかは訓戒・減給処分を行い、それに反対して裁判沙汰になっている。
世も末とはこのことだ。処分自体が甘い。教師失格なんだからクビにしなきゃダメ。
「例え国家が決めようが、クラスのみんなで決めたことであったとしても自分自身が
納得出来ない場合は、それに同調する必要はないのです。それが個人の意志の尊重」
そんなことじゃ、何も子供に教えられない。こんな教師に教わったら異常人格者が
形成されてしまう。この恐ろしさにも気づかず、ムードだけで煽動しているんだ。

卒業式も生徒の自主性に任せたパフォーマンス・ショーに堕落してしまっている。
楽しくやるのが一番だ、という理由なんだろうが、厳粛さなど吹っ飛んでいる。
「螢の光」「仰げば尊し」なんか当然歌われない。
学校生活への別れの心情を歌ったり、先生への思慕を歌うなんて馬鹿馬鹿しいのだ。
もっとかっこよく若者向けに作られた流行歌(これも騙しの手口なんだがネ)を
歌って、若者らしい(って何だか本人たちもわかってないくせに)門出を祝う、と
いう感覚でいる。そこには育ててくれた親や教師への感謝なんて何もないんだ。

これは先生方が毅然と出来ていないからだ。教える立場の人間が未熟者だからだ。
教育をする人間がきちんとした教育を受けていないから無理なんだろう。
今の世の中は、お金がすべて。金持ちになるために、その近道として受験に有利な
学校へ行き、受験テクニックを磨いているだけ。人間を磨こうなんて誰も思わない。
あらゆる環境が昔も良くはなかったが、今もさっぱり良くなっていない。
世の中が良くなるなんてことは幻想なのだろう。
自分自身をしっかり見据えて生きることが、どんな時代でも大切なのだと思う。


今朝から、また「いじめ〜自殺」の話題で新聞もテレビも大騒ぎでした。
現代の何がいけないかというと、責任ある立場の人の潔さがないよね。
校長とか社長とか「長」の付く人が、地位から得る収入だけにしか関心がない。
同様に、医者もそうだけど「先生」と呼ばれる連中がこれもどうしょうもない。
全員がそうではないだろうが、その無責任人間の比率は高まっているだろうネ。

必修科目の履修漏れ問題なんかも処罰がなにもない。
こんなのは、少なくても該当した学校の校長は全員すぐ左遷すべきだろう。
教頭なども格下げしなきゃ。
不適切だった、なんて生易しい問題じゃないはず。彼等は教育者失格なんだから。
赤信号みんなで渡れば恐くない、なんてことを生徒に示したら教育になりません。
戒告処分なんて、実質なにも効果がない。
すみませんでした、なんて、謝って幕引きする問題じゃないだろう。

教育委員会なんてのも、一種の天下り先なんじゃないのかな?
頭も使わず、汗も流さず、地位と収入だけが得られるタナボタの寄生虫なんだろう。
大体がそうだろうと思っているが、豪邸に住んで贅沢な暮らしをしている連中は、
世の中から甘い汁を吸う権利を得た汚い者が大半だと思う。
そこを目差してのお勉強なんだろうから、世の中がダメになって当然なんだろう。
こちとら、学歴も地位も天下り先もない貧乏人だが、潔くて気持がいいや。


先日の日記でも書いたことだが「いじめ」がいよいよ社会問題化している。

文部科学省に「いじめが原因で11日に自殺する」という差出人不明の予告手紙が届い
た問題で、石原知事は、いじめを苦にした自殺が相次いでいることについて「甘った
れている」などと指摘。問題解決のために「もうちょっと親がしっかりしたらいい」
との持論を述べた。
「親はなんで(いじめ問題に)関与してこないのかね。まず親が関与すべきじゃない
か。私なんか、子供にけんかの仕方を教えましたよ。そしたら効果があって、たちま
ち相手を倒して番長になっちゃった。そういうことを親が教えればいい」


この論旨には「ちょっとなあ……」と、私は賛同しかねる。
これは強者の論理だ。石原知事のような強い人には弱者が理解出来ないのであろう。

いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子どもが中学、高校で半数にも満た
ないことが、民間団体の調査で分かった。


こういう記事もあった。

一連の報道で学校へのパッシングが目立つのだが、いじめる連中へのパッシングは
どこへ行ってしまったのだろう。それが最も重要で解決へのたった一つの道なのに。

そもそも、いじめをするヤツが100%悪いに決まっている。
いじめられる方にはなにも落ち度はない。これはいかなる場合に於いてでもそうだ。
いじめなどするヤツは基本的に人間じゃない悪いケモノだ。抹殺されるべき存在だ。
これをもっともっと信念を持って報道すべきである。

自殺した生徒のいじめ側の4人は登校出来ずに家に引きこもっているらしいのだが、
もっと、ここを、この状況を強調して欲しい。
悪い事をすれば悪い酬いがあるのだ、ということをしっかりPRするべきなのだ。
被害者ばかりクローズアップしてどうなるというのだ。
メディアは悪人の味方なのか。善人には人格はなく、加害者の人権だけ養護すると
いう、とんでもない誤った報道姿勢が根本的な問題の解決を妨げているのである。

酔っぱらい運転での人身事故でも、被害者のその後はフォローするくせに加害者が
どのような量刑になって、本人や家族がどんな目にあってしまったのかが報道されず、
悲惨なのは加害者になることなのだぞ、という再発防止の目的を達していない。
10万円以下の罰金となる、というような報道では、じゃあ、100円かも知れない
などと誤った認識を持つ恐れがある。
こういう加害者側に回る連中は、そもそもノータリンなわけなので、わかりやすく
罰則の実例を紹介して見せなければ理解出来ないはずなのである。

「いじめ」というとゲーム感覚のイメージで軽い響きであるが、やっていることは
犯罪であり、刑事事件なので、加害者は犯罪者にほかならない。
「少年法」の壁に守られているのは善良な人間ではなく、悪辣非道な犯罪者達なのだ。
これでは少年なら何をしても罪に問われず、犯罪を推奨する悪法になっている。
更正可能である少年という概念は統計的に有為なのかを検証するんが科学というもの。
百歩譲って、少年である時期に再犯を繰り返す人間は確実に更正不可能が実正されて
いるのだから、2回目以後は少年法は不適用とするのが妥当であろう。

学校は治外法権のようなものではなく、公道のような場所であり、先生たちだけが
管理することは不可能なので、犯罪行為があったならば直ちに警察が関与するべきで
さっさと悪ガキは教室からしょっぴって取り調べを行うことが妥当である。
現代の学級は殆ど崩壊していると聞いているし、実際に参観日に行ってみても明らか
に勉強する態度が見受けられない欠陥人間が大きな面をして授業を妨げている。
この悪ガキは明確に先生の「公務執行妨害」という重罪を犯しているのである。
こういうバカ人間とその親には厳罰をもって非を認めさせる必要がある。

このような通常の人間としての倫理を外れる欠陥者は、まとめて処分しないと善良な
ふつうの人間の学ぶ権利や生きる権利を保証出来ない。
全寮制の更正学級を都道府県に一つは設けて、徹底的に人間形成の指導を行えば良い。
そこにおいても改善が見られないならば、更に極悪人用の施設へ島流しにして体罰を
含む強硬な手段で矯正し、18歳を超えてそこを卒業出来ない者は刑務所へ編入させ、
一般の社会から隔離しなければ犯罪の抑止が出来ないであろう。
ここを卒業した者はそれを履歴書に書く必要があるのだから、実質的に前科者と同じ。
いじめを行って人を差別して苦しめた酬いとして差別されることは至って当然である。

「三つ子の魂、百までも」というではないか。犯罪者の更正など無意味である。
飲酒運転を行った者は永久に運転免許を剥奪すべきである。
そういう資質の人間なのである事実を時間の経過で曖昧にする必要は絶対にない。
とにかく事実の吟味は慎重にするべきであるが、間違いない犯罪人と断定出来るなら、
厳罰を与えて、善良な市民とは異なる危険な生き物として区別し、徹底的な監視下に
置いて、再犯を防ぎ、それでも罪を重ねるようなヤツは基本的人権を剥奪して終身刑
として獄中で生涯を終えさせるようにすべきである。

とにかく犯罪者を甘やかしているのが、諸悪の根元である。法律改正が望まれる。


> 中学生の自殺相次ぐ=大阪1年女子、埼玉3年男子−いじめか、学校側対処遅れる?

> 同級生から「ちび」と言われ悩んでいたり金銭の要求があったりするなど、いずれ
> もいじめを苦にしていたとみられる。
> 学校側は「いじめの前兆段階として担任が指導していた」(大阪)、
> 「相談を受けており相手の生徒に早く指導すればよかった」(埼玉)としており、
> 対処が遅れた可能性もある。

いじめ〜自殺問題が連日テレビや新聞で報道されているが適切な対応が全く採られず、
沈静化の目処も立っていない。嘆かわしい現状だし、危機感も政府にはないようだ。
ネットの投稿を見ていたら珍しく核心をついた意見があった。

> いじめを無くしたいなら、
> <いじめをする連中を処罰する制度の確立>(親や教師も含め)
> この一言に尽きます!

私も同感だ。
これしかないのに、やらないことが国や地方自治体の怠慢であり、何もしないこと
自体がむしろ犯罪行為だと思われる。
自殺者の親は都道府県と同時に、法律の不整備が招いた惨劇として国を訴える行動を
起こすべきだと思う。被害者の会を作り、集団訴訟を起こせば良い。

自殺が発生する事が問題なのではなく、いじめが起きていることが問題の本質なのに、
「自殺なんかしないで、頑張って生きなきゃダメだ」という論調に収束されている。
問題をいじめられる側の「弱さ」「脆さ」にあるとしているのは新聞もテレビも同じ。
国家の運営を任された人間も、有識者達もまるで脳味噌が腐っているとしか思えない
思考の膠着化が起きていて、弱者救済への手立てを考えようともしていない。

物事にはスピードとタイミングが必要である。
<NHK受信料不払いを処罰する制度の確立>
<学校での給食費不払いを処罰する制度の確立>
なぜ、こんなこともさっさとやらないのであろうか。
国会議員は何をしているのだろう。

先日、「いじめをすることも個人の自由だ」という子供の発言があって驚いた。
これは日頃の教師の威信失墜が招いた悪影響のひとつだと思われる。
日本国の国旗と国歌を否定し、国旗掲揚や国歌斉唱を拒絶して、日本国憲法の遵守を
拒否することを身をもって生徒の前で示し、それが個人の自由だ、と高らかに宣言。
みんなもこれを見習えというのだから、なにをしてもいいんだと思うのが当然だ。

思考、信教、言論の自由は保証されていても、他人への強要は憲法違反だ。
そもそも憲法違反する自由と言うものは存在しない。
憲法で守られていることをみだりに行使しておいて、憲法を無視することは矛盾し、
そういう整合性のないデタラメなことを率先している教師たちの言うことなど何の
規範にもならないから、教育自体が崩壊してしまっているのだ。


野党が教育基本法改正に反対していて、それは、やらせ問題の決着がついていない
とか、いじめ対策や未履修課目などの対応さえ出来ていない段階ではそんな審議に
応じられないとか、かなりもめそうである。
何をどう変えようとしてるのか、改正案にどんな問題があるのか勉強してみた。
とりあえず、新旧の比較。↓↓↓
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/edu0604.html

こういう法案の解釈は専門家じゃないからはっきりしたことは言えないのだけれども、
改正案でいいんじゃないの? どこに問題があるの? という素朴な疑問が浮かんだ。
けっこう改善されているように思うんだけどなあ。
たとえば、こんなのも追加されている。

(家庭教育)第十条
(1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、
生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和の
とれた発達を図るよう努めるものとすること。
(2)国および地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学
習の機会および情報の提供その他家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう
努めなければならないこと。

私は個人的にだけど、
 
> 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、
 > 生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、

ここなんか、とても良いと思うのです。
保護者は子供の教育については真っ先に責任があるんだよと宣告しているわけなので、
授業をおとなしく集中して受けることが出来るとか、学校へ行く前に子供に躾をする
義務があることを鮮明にしたし、ましてや、給食費を払わないとか、国旗・国家を
無視するとか、いじめをするとか基本的な学校生活の心構えが出来ていないのは保護
者の責任が重大で他に責任転嫁することではないと明言していることを評価したい。

おしなべて当たり前の行動的規範を定めているのであり、反対することの為に野党が
存在するみたいな、いちゃもんつけ、揚げ足取りのような時間の無駄は慎むべきだ。
これは「基本法」なので、ここをどうこうしても、現在起きている現場レベルの危機
を救済することは出来ないのだ。さっさと可決して、具体的な細則の整備に入ったら
良いのではないか。こんな段階で審議拒否や引き延ばしをするのは国民を裏切る行為
としか思えない。毎日のように子供がいじめられ、自殺が起きているのだ。

すぐやらなくてはならないこと……
担任の先生には、早く「ギブ・アップ」して、上司に報告し、職員室全体での問題と
して取り上げてもらうようにスピードアップしてほしい。
それで成績の査定が下がってもしょうがないではないか。
そして、「ギブ・アップ」せずに、秘匿していた先生には強烈なペナルティを課して、
より以上の査定ダウンをする評価基準にするべきだ。

「三人寄れば文殊の知恵」というではないか。教頭やカウンセラーの助力を求める。
授業を妨害したり、いじめを繰り返したりする、どうしょうもないガキは、特別の
問題児学級を設けて、すぐにそこに押し込む。給食費不払い児童もそこに入れる。
ここではまともな授業は不可能だろうが、その子の学力が落ちるのは自業自得だ。
それが不満な保護者はカウンセラーと三者面談し、復帰させる場合は保護者が授業を
10日間程度参観することにするとか、再発防止を徹底する。

殆どのケースでは問題が発覚すると「仲良くしなさい」とか「ケンカはやめよう」
などと、子供当事者の関係に起因することだと決めつけている。
そうすることで責任が教師に及ばないように逃げている。
しかし、いじめは加害者と被害者がはっきりしていて、善悪も明解なのだ。
被害者には責任がない一方的犯罪行為なのに、判定者になることから逃げているのだ。
まあ、いじめをするようなガキの親はろくな人間じゃないので、そっちの方が恐くて
被害者側の保護者にだけ良く観察してあげてください、といって現実逃避する。

悪人を悪人といってはいけない、異常者を異常者といえない、おかしな風潮がある。
しかし、お前のやったことは悪いことだとちゃんと分からせないと加害者でいる内は
バレなきゃいいや、弱虫より強い子なんだからいいや、いじめ側なんだからいいや、
と安心していると、とんでもない事件となって、今度は家族ぐるみ全員が世間からの
いじめにあうという羽目になる可能性が大きいのだ。
なにしろ、相手が自殺してしまうという仕返しの核爆発で立場が逆転してしまうのだ。
そういうことをマスコミも「大きな声で」教えてあげなければならない。

4人組のいじめガキは登校出来ず、カウンセラーが家庭訪問しているというし、恐喝
して1500円を奪ったガキは、泣きじゃくってしまって、捜査が進まないといった
加害者側の惨状をもっとトップニュースで伝えるべきだ。
いくら名前を伏せたって、その学校の内部や区域住民には全部バレているはずである。
ほ〜ら、こんなことになってしまうんだよ、と、いじめ進行形のガキと親に対しては
徹底的な脅しのプレッシャーを与えて、毎日ビクビク暮らすように仕向けなきゃダメ。
「自殺した子は天国へ行くが、自殺させたガキは現世で地獄をみる」これで行こう。


教育基本法改正案は15日夕、衆院教育基本法特別委員会で、自民、公明の与党の
賛成多数で可決された。
新聞の記事(東京新聞)では、<子ども不在「目は上に」><現場監視さらに……
不安の声><国の権限強化狙う>などと害して「批判調」である。社説も然り。

しかし、何かがおかしい。
民主、共産、社民、国民新の野党4党は、改正自体を反対しているだけであるから、
106時間という審議中も、現在の教育現場の問題は政府が悪いという主旨での、
「批判」を繰り返していただけで、教育基本法改正案の条文について、一言一句を
吟味するという協力的な努力をしていない。
多数決論理が民主主義なのだから、改善点を指摘することで野党の意見を提出する
こと以外では彼等の存在自体が意味をなさない。少数意見でも尊重することが民主
主義なのだが、その意見を出さないで、改正審議自体に反対では議会が成立しない。

野党の反対主旨は、
1.スケジュールを決めて進めるような課題ではない。一ヶ月では短い。
  ↓↓↓

スケジュールを立てることは悪いことではなく、むしろ当たり前である。日程案を
作らないようでは無責任極まりない。一ヶ月を無為に過ごしたのは野党側である。

2.今は教育基本法の改正などを悠長にやっている時ではない。
  ↓↓↓

ならば、さっさと(各論的実践法である)教育指導要領の改正案を提出したら良い。
そのためにも、悠長に教育基本法改正反対などしているヒマはないのだ。
人間が作る法なのだから完全無欠とはいかないだろうが、そこを補うような建設的な
意見を言うべきではなかったか。
いじめや未修課目の問題を解決出来るような法案があるのなら出してみれば良い。

3.国の権限強化をしてはならない。
  ↓↓↓

具体的にどこが問題なのか野党の指摘している箇所がもっと主観的で分かりにくい。
軍国主義へ復活反対とか、国民の自由を奪うとか、そんなことが何処をどう読めば
書いてあるのかを具体的に示さなければならない筈だ。
国から地方自治体や学校への権限委譲を進めて来た結果が、今の状況なのであり、
民主党議員から「いじめという文字が教育指導要領に書かれていない。書かないと
指導出来ないのではないか」という意見も出ているように、野党自体も指導強化を
しなきゃダメともいっている。矛盾と混乱は野党において特に激しい。

結局、なにも反対する根拠がないのではないか?

戦前の「教育勅語」から「教育基本法」への改正時に「個人の権利」という概念を
強く打ち出したために、「自由」という言葉が一人歩きして、なにをやっても良い
ような風潮が蔓延したのが現状であり、改正案は、そうじゃなくて公共性と義務を
強化したように感じる。無責任な自由ではなく、責任ある義務の上に成立する権利
と自由を確立している。素晴らしいとも言えないだろうが、改良・改善であるのは
認められると思う。恐らく誰が作っても同じようなものにしかなりえない。

この教育基本法改正の問題に関しては野党は単純に党利党略のムード的な国民反撥
意識を煽ることだけを目差していた。まず自分の党の存在、しいては議員としての
己の存在を最優先し、国民をないがしろにしたり、誤った誘導をしていた責任は
大きい。これは新聞やマスコミも同罪だ。肝心な論点がさっぱり出てこないばかりか、
ダメ出しばかりで政権批判ばかりやっている。具体的な改善案など見たこともない。
大学まで出た知識と素養は一体どこに消えたのか、税金を使って何を学んだのだろう?


16日発売の週刊文春を見たら、<新聞不信>というコラムで、
「いじめできれいごとはもうたくさん」という記事があった。
その記事の後半の抜粋である。↓↓↓

 もうきれいごとをいう段階ではなく、この社会では<いじめはなくならない>と
いう前提の記事が必要ではないか。
 昨今の幼児虐待も実際には社会的不満があり、人間的に未熟な親が子どもにあたり
ちらしているという図だろう。それは小中学校のいじめに通じている。
さらにいじめには、恐喝といっていい犯罪まで含まれている。
 単に学枚だけの問題ではなく、家庭教育のいいかげんさがいじめの遠因になって
いることは、各紙の紙面を読むとよくわかる。
 いじめは犯罪であり、それには親も貫任があるとはっきり断言し、そのうえで
ときには学校に警官が導入されても仕方がないと書くべきだ。
 いじめに負けるな、誰かに相談しろ、などと生ぬるいことをいっているから、
加害者は図にのっているのだ。

まったく同感である。
加害者への圧力なしに犯罪が減るわけがない。何をされても我慢しろという論旨は
ことなかれ主義の際たるものだ。これだけ生徒や校長の生真面目な尊い命を無駄に
し続けてよいわけがない。もっと真剣に実効がある策をとるべきなのだ。
連載記事のタイトルも、
「子どもを守る いじめから」(朝日)
「死なないで いじめ 救いの手どこに」(毎日)
「なくせ いじめ自殺」(読売)
といった受身の表現にしかなっていないのだ。こんなバカな発想はないだろう。

「いじめ」というのは子供がやってるのだから大したことはないので、それくらいで
自殺なんかするなよ、という意識が見え見えである。
ところが実際には「恐喝」という犯罪行為だってあるし、暴力もある。
「いじめ」の語句を実際に行われた行為の語句で置き換えてみればはっきりする。

 子どもを守る、恐喝(暴力)から。
 死なないで、恐喝(暴力)からの救いの手どこに。
 なくせ、恐喝(暴力)による自殺。
なんてキャンペーンになってしまうではないか。
こんな連載記事はありえないだろう。寝言言ってないで検挙するしかないじゃないか。
「子供を守る、飲酒運転による轢き逃げから」なんてことが実現可能なのかい。
被害者に救いの手を差し伸べるのは二の次だろうが。
加害者(犯罪者)を野放しにし、加害者の人権を優先するなんて本末転倒である。
性悪なヤツを懲らしめなきゃ社会が成り立っていかない。

娘が小学生の時に、戦争体験の本の感想文を親と子が書くという宿題があった。
その後、それが文集になって配布されたが、私の感想文は非掲載だった。
殆どが、戦争の悲惨さがよくわかった。二度と戦争はごめんだ。戦争からわが子を
守りたい。戦争へ誘導するような教育はなされるべきではない……などなど……
至って類型的で、どこかで見たような作文ばかりで、教師の主義に沿ったものだけが
掲載されていた。

私は、クラスの仲間をのけものにしたり、いじめたりするところから解決しない限り、
戦争というものはなくならない。他人が平和にしてくれるわけじゃなく、自分達が
まず仲良く出来ればそれが次第に大きな友情の輪になって世界平和が実現するのだ。
だから、他人事じゃない。兄弟や父母とも意思の疏通が出来ないようでは、とても、
他国の人と平和を共存出来るわけがない、とか、書いたのだが、おそらくセンセイは、
それと戦争とは別でしょ、と思ったに違いない。
予想外の感想だったのだろう。自分が考えていないことは評価出来ないのである。
こんなところでタブーな「いじめ」の言葉を持ち出してほしくなかったかもしれない。

金八先生役でお馴染みの武田鉄也はこんな風に言っている。
「いじめる奴を説教しても変わらない。問題はいじめられる奴で、大事なのはいじめ
られる奴を鍛えること」
石原都知事と要旨は同じで、これは強者の論理だ。世の中は弱肉強食であり弱い者が
虐待されるのは自然の摂理なんだから、強くなって戦え、ということである。
弱い者は次々に駆逐されるのだという論理。これでは絶対に世界平和は実現しない。
「いじめは昔からあるし、今後も絶対になくならない。問題は自殺することなので、
それをどうしたら防げるかという、極めて狭い問題なのである。」
これが大勢の意見であって、マスコミも殆どが同一色で染まっている。

しかし、これで良いのだろうか?天下の大悪党石川五右衛門の辞世の句とされる、
「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」を、その通りだと認めて、
「世にいじめの種は尽きまじ」なので、これにはお手上げで良いとする世相である。
警察は犯人を捕まえることは二次的で、本来は「犯罪の予防」である筈であるし、
交通取締も違反車の検挙が目的なのではなく、交通違反を少なくすることなのだ。
酔っぱらい運転なんて永遠になくならない。こういう意識では事故は減らない。

加害者連中に対してのアクションというのは、言うは易しで実際には難しい面もある。
だからこそ、そこに人類の叡智を結集して、どうすれば理想に近付けるかを模索する
べきなのだ。
おおげさに言えば、これが出来ないようでは、人類に明るい未来はない。
逆に、これが出来るようになれば、世の中の全ての犯罪行為が消え失せるような未来
が拓けるのかもしれない。
いじめの解決は(自殺の防止じゃないぞ)人類の最大のテーマかも知れない。


17日夕方に文部科学大臣から、いじめによる自殺という痛ましい事件が依然として
発生している状況を踏まえ、いじめの問題についての呼びかけが発表された。

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          文部科学大臣からのお願い
「未来のある君たちへ」

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんな
はずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今、やっているいじ
めをすぐにやめよう。
    *          *         *
 いじめられて苦しんでいる者は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、
学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、
いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみん
なが助けてくれる。

 平成十八年十一月十七日
      文部科学大臣 伊吹 文明
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どうも世の中全般に、このような通達を真剣に読まず、扱わず、粗略に扱うことが
かっこいい、と思っている風潮がある。
教育に関わる最高責任者という位置付けの方の発言を軽々しく捉えて良いわけがない。
なのに……
当日夜半過ぎの日本テレビのニュースを見ていたら、私は愕然としてしまった。
たったこれだけのわかりやすい内容の文面を更に省略してしまっていたのだ。
それも、「いじめられて苦しんでいる者は、」以降を抜粋して解説していたのだった。

大切なことは私は前半にあると思う。99%は前半に問題の根幹があると思う。
前半の網に洩れて、それでもなお、いじめが起きてしまった時でも、自殺することを
なんとか回避しようという水際の切羽詰まったときの対処が後半なのである。
文部科学大臣が切に願っていて、お願いしたいことは「いじめをやめよう」という
ことなのである。
他のテレビ局は見ていないので比較は出来ないが、日本テレビの報道局という部署は
無見識で、モノの道理もわからない、宣伝マンのような薄っぺらい頭脳集団だろうと
確信した。ここの報道は気を確かにもって注意深く見聞きした方が良さそうである。


日記ではあるものの、このところ毎日「いじめ問題」ばかり考えている。
身の回りに「いじめ問題」が存在するわけではないのだが、他人事ではなく、
人間とは……という哲学的領分にまで達する重要な課題だと思うからである。

今朝の東京新聞に篠原鋭一さんという曹洞宗のご住職の談話が掲載されていた。
その一部だが、
「世界には生きたいのに生きられない命がたくさんある。『私なんかこの世に
いない方がいい』と思っている人は、こういうふうに納得してほしい。
あなたはただ、いるだけでいい。いるだけで家族はうれしい。そして時間の力
を信じましょう。不幸も幸福も永遠には続かない」

これを読んで、いやあこれは凄い真理だなあと感心してしまった。

なかには居ることが疎ましいと思う家族もいるかも知れない。それは悲劇だが、
誰かが一人でも自分が存在していることをうれしいと思ってくれている人間が
いるのではなかろうか?
もし、最悪の場合、誰からも疎まれていたとしても未来永劫そのままだという
わけではないかも知れない。まあとりあえずは40歳くらいまで生きてみたら
何か見えてくるのではないだろうか。死ぬのはそこからでもいいじゃないかな。

いじめ問題というのは「いじめられる側だけの問題ではない」と思う。
いじめの当事者が判明しても、その生徒を追及しても、否認されるのだろう。
両親も「うちの子がするはずない」と言い張るに違いない。
しかしバレなければ、罰せられなければ、それでよいわけではないだろう。
うまく誤魔化せたとして、それが長期的視点で見て、結果OKではなかろう。
これはより大きな犯罪を起こす芽を育成していることに繋がるのだから。

相変わらず「教育基本法の改正」の反対運動が盛んだ。
盛んだ、と言っても、目立つからといって、それが世論の大多数ではないだろうが、
たった便箋二枚程度の条文にそんな重大な意味が含まれているのだろうか?
曰く、
「個人を尊重し人格の完成を目指すものから、国のために喜んで死ねる国民をつくる
ものに変えようとしている」
「改正案は教育への国家介入を許す改悪法」
「法律で愛国心を押し付けるな」
「愛国心教育については、内心の自由を保障する憲法に抵触する恐れがある」
「いじめや必修科目の未履修など現在の教育問題について、教育基本法のどこに責任
があるのか。拙速な強行採決ではなく、十分に議論すべき」
「採決強行は、いじめが原因とみられる子どもの自殺など直面する課題の事実解明と
深い教育的議論を放棄するもの」
「日の丸・君が代の時と同じように、法案が通れば、愛国心の強制が始まる」
「『採決を急ぐな』という国民多数の声を無視した暴挙」
「教育の独立性を規定した十条を踏みにじり、全国学力テストなど教育現場をむしば
む競争主義を導入しようとしている」
「教育ではなく、子どもの調教と呼ぶべきことだ。子どもの人格を尊重したとは考え
られない」
「教育の目標を基本法に盛り込むことは、憲法的にも法理論的にも間違っている」

そうなのかなあ? 考え過ぎじゃないの? わざとこじつけていないか?
強行採決だなんて表現してるけど野党側が真剣に審議に応じなければ何年かかっても
いっしょでしょうが。106時間も討議したというじゃない。まだ足りないの?
そもそも、「強行採決」させようという野党側の作戦なんだろうと思う。確信犯だ。
一見、与党の横暴のような印象を持たせることで、イメージダウンを画策して、選挙
での攻撃ネタにするという野党陣営のもっとも汚く古臭い戦術だとしか思えない。
国民や教育というものを真剣に考えてはいないどころか、自分にとって何が得なのか
ということだけに腐心している情けない野党に成り下がってしまったようだ。


教育基本法の改正がマスコミを賑わしているのだが、肝心の基本法条文を殆どの
人は読みもしないで、あ〜だ、こ〜だと言っている。
そんなに長文でもないので、ちゃんと読んで、自分で考えることが必須である。
まずは、現行の基本法の「全て」。

教育基本法

昭和22(1947)年3月31日 法律第25号
昭和22(1947)年3月31日 施行
------------------------------------------------------------------------
 朕は、枢密期間の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここに
これを公布せしめる。
------------------------------------------------------------------------
教育基本法
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界
の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本にお
いて教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するととも
に、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければな
らない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基
本を確立するため、この法律を制定する。
------------------------------------------------------------------------
第一条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義
を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身とも
に健康な国民の育成を期して行わなければならない。

第二条(教育の方針)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。
この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を
養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければ
ならない。

第三条(教育の機会均等)

 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければ
ならないものであつて、人種、信条、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教
育上差別されない。

 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難
な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

第四条(義務教育)

 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。

 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これ
を徴収しない。

第五条(男女共学)
 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共
学は、認められなければならない。

第六条(学校教育)

 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法
律に定める法人のみが、これを設置することができる。

 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職
責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待
遇の適正が、期せられなければならない。

第七条(社会教育)

 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体
によつて奨励されなければならない。

 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利
用その他適当な方法によつて教育の目的の実現に努めなければならない。

第八条(政治教育)

 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

 法律に定める学校は、チチ定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育そ
の他政治的活動をしてはならない。

第九条(宗教教育)

 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重し
なければならない。

 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的
活動をしてはならない。

第十条(教育行政)

 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われ
るべきものである。

 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立
を目標として行われなければならない。

第十一条(補則)
 この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定
されなければならない。

附則
 この法律は、公布の日から、これを施行する。


こちらが、改正法案である。

教育基本法案

 教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。

目次

 前文

 第一章 教育の目的及び理念(第一条ム第四条)

 第二章 教育の実施に関する基本(第五条ム第十五条)

 第三章 教育行政(第十六条・第十七条)

 第四章 法令の制定(第十八条)

 附則

 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発
展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公
共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統
を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基
本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

   第一章 教育の目的及び理念

 (教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として
必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 (教育の目標)

第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目
標を達成するよう行われるものとする。

 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心
を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精
神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神
に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、
他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 (生涯学習の理念)

第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、
その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、
その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

 (教育の機会均等)

第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられな
ければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育
上差別されない。

2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を
受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。

3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が
困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

   第二章 教育の実施に関する基本

 (義務教育)

第五条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受
けさせる義務を負う。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会にお
いて自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基
本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適
切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。

4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収
しない。

 (学校教育)

第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及
び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の
発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、
教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで
学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

 (大学)

第七条 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真
理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、
社会の発展に寄与するものとする。

2 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊
重されなければならない。

 (私立学校)

第八条 私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんが
み、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によっ
て私立学校教育の振興に努めなければならない。

 (教員)

第九条 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と
修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重さ
れ、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

 (家庭教育)

第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであっ
て、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調
和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、ロロ護者に対する学習の
機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努め
なければならない。

 (幼児期の教育)

第十一条 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであるこ
とにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整
備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

 (社会教育)

第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び
地方公共団体によって奨励されなければならない。

2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、
学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育
の振興に努めなければならない。

 (学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)

第十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割
と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

 (政治教育)

第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならな
い。

2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育
その他政治的活動をしてはならない。

 (宗教教育)

第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活
における地位は、教育上尊重されなければならない。

2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教
的活動をしてはならない。

   第三章 教育行政

 (教育行政)

第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めると
ころにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割
分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する
施策を総合的に策定し、実施しなければならない。

3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教
育に関する施策を策定し、実施しなければならない。

4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上
の措置を講じなければならない。

 (教育振興基本計画)

第十七条 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、
教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項
について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければな
らない。

2 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団
体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければ
ならない。

   第四章 法令の制定

第十八条 この法律に規定する諸条項を実施するため、必要な法令が制定されなけれ
ばならない。

   附 則

 (施行期日)

1 この法律は、公布の日から施行する。

 (社会教育法等の一部改正)

2 次に掲げる法律の規定中「教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)」を「教
育基本法(平成十八年法律第▼▼▼号)」に改める。

 一 社会教育法(昭和二十四年法律第二百七号)第一条

 二 産業教育振興法(昭和二十六年法律第二百二十八号)第一条

 三 理科教育振興法(昭和二十八年法律第百八十六号)第一条

 四 高等学校の定時制教育及び通信教育振興法(昭和二十八年法律第二百三十八号)第一条

 五 義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法(昭和二
十九年法律第百五十七号)第一条

 六 国立大学法人法(平成十五年法律第百十二号)第三十七条第一項

 七 独立行政法人国立高等専門学校機構法(平成十五年法律第百十三号)第十六条

 (放送大学学園法及び構造改革特別区域法の一部改正)

3 次に掲げる法律の規定中「教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)第九条第
二項」を「教育基本法(平成十八年法律第▼▼▼号)第十五条第二項」に改める。

 一 放送大学学園法(平成十四年法律第百五十六号)第十八条

 二 構造改革特別区域法(平成十四年法律第百八十九号)第二十条第十七項

     理 由

 我が国の教育をめぐる諸情勢の変化にかんがみ、時代の要請にこたえる我が国の教
育の基本を確立するため、教育基本法の全部を改正し、教育の目的及び理念並びに教
育の実施に関する基本となる事項を定めるとともに、国及び地方公共団体の責務を明
らかにし、教育振興基本計画の策定について定める等の必要がある。これが、この法
律案を提出する理由である。




一方、野党である民主党は、独自の対案を掲げている。
↓↓↓

民主党案(日本国教育基本法案)
(前文)
 心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と、学校、地域、社会の、
広義の教育の力によって達成されるものである。
 また、日本国民ひいては人類の未来、我が国及び世界の将来は、教育の成果に依存
する。
 我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、また、人と人、国と
国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精
神を醸成することである。
 我々が目指す教育は、人間の尊厳と平和を重んじ、生命の尊さを知り、真理と正義
を愛し、美しいものを美しいと感ずる心を育み、創造性に富んだ、人格の向上発展を
目指す人間の育成である。
 更に、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、
連帯して取り組む豊かな人間性と、公共の精神を大切にする人間の育成である。
 同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、
芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求す
ることである。
 我々は、教育の使命を以上のように認識し、国政の中心に教育を据え、日本国憲法
の精神と新たな理念に基づく教育に日本の明日を託す決意をもって、ここに日本国教
育基本法を制定する。

第一条(教育の目的)
 教育は、人格の向上発展を目指し、日本国憲法の精神に基づく真の主権者として、
人間の尊厳を重んじ、民主的で文化的な国家、社会及び家庭の形成者たるに必要な資
質を備え、世界の平和と人類の福祉に貢献する心身ともに健やかな人材の育成を期し
て行われなければならない。

第二条(学ぶ権利の保障)
 何人も、生涯にわたって、学問の自由と教育の目的の尊重のもとに、健康で文化的
な生活を営むための学びを十分に奨励され、支援され、及び保障され、その内容を選
択し、及び決定する権利を有する。
第三条(適切かつ最善な教育の機会及び環境の享受等)何人も、その発達段階及びそ
れぞれの状況に応じた、適切かつ最善な教育の機会及び環境を享受する権利を有する。

何人も、人種、性別、言語、宗教、信条、社会的身分、経済的地位又は門地によって、
教育上差別されない。

国及び地方公共団体は、すべての幼児、児童及び生徒の発達段階及びそれぞれの状況
に応じた、適切かつ最善な教育の機会及び環境の確保及び整備のための施策を策定し、
及びこれを実施する責務を有する。

国及び地方公共団体は、経済的理由によって修学困難な者に対して、十分な奨学の方
法を講じなければならない。

第四条(学校教育)
 国及び地方公共団体は、すべての国民及び日本に居住する外国人に対し、意欲をもっ
て学校教育を受けられるよう、適切かつ最善な学校教育の機会及び環境の確保及び整
備に努めなければならない。

学校教育は、我が国の歴史と伝統文化を踏まえつつ、国際社会の変動、科学と技術の
進展その他の社会経済情勢の変化に的確に対応するものでなければならない。

学校教育においては、学校の自主性及び自律性が十分に発揮されなければならない。

法律に定める学校は、その行う教育活動に関し、幼児、児童、生徒及び学生の個人情
報の保護に留意しつつ、必要な情報を本人及び保護者等の関係者に提供し、かつ、多
角的な観点から点検及び評価に努めなければならない。

国及び地方公共団体は、前項の学校が行う情報の提供並びに点検及び評価の円滑な実
施を支援しなければならない。

第五条(教員)
 法律に定める学校は、公の性質を有するものであり、その教員は、全体の奉仕者で
あって、自己の崇高な使命を自覚し、その職責の十全な遂行に努めなければならない。

前項の教員は、その身分が尊重され、その待遇が適正に保障されなければならない。

第一項の教員については、その養成と研修の充実が図られなければならない。

第六条(幼児期の教育)
 幼児期にあるすべての子どもは、その発達段階及びそれぞれの状況に応じて、適切
かつ最善な教育を受ける権利を有する。

国及び地方公共団体は、幼児期の子どもに対する無償教育の漸進的な導入に努めなけ
ればならない。

第七条(普通教育及び義務教育)
 何人も、別に法律で定める期間の普通教育を受ける権利を有する。国民は、その保
護する子どもに、当該普通教育を受けさせる義務を負う。

義務教育は、真の主権者として民主的で文化的な国家、社会及び家庭の形成者を育成
することを目的とし、基礎的な学力の修得及び体力の向上、心身の調和的発達、道徳
心の育成、文化的素養の醸成、国際協調の精神の養成並びに自主自立の精神の体得を
旨として行われるものとする。

国は普通教育の機会を保障し、その最終的な責任を有する。

国は、普通教育に関し、地方公共団体の行う自主的かつ主体的な施策に配慮し、地方
公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえつつ、その地域の特性に応じた施策を講
ずるものとする。

国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については授業料は徴収せず、
その他義務教育に関する費用については、保護者の負担は、できる限り軽減されるも
のとする。

第八条(高等教育)
 高等教育は、我が国の学術研究の分野において、その水準の向上及びその多様化を
図るとともに、社会の各分野における創造性に富む担い手を育成することを旨として
行われるものとする。

高等教育を行う学校は、社会に開かれたものとなるよう、職業人としての資質の向上
に資する社会人の受入れの拡大、地域、産業、文化、社会等の活性化に資する人材の
養成を目指す関係者との連携等を積極的に図るものとする。

高等教育については、無償教育の漸進的な導入及び奨学制度の充実等により、能力に
応じ、すべての者に対してこれを利用する機会が与えられるものとする。

第九条
(建学の自由及び私立の学校の振興)
 建学の自由は、別に法律で定めるところにより、教育の目的の尊重のもとに、保障
されるものとする。国及び地方公共団体は、これを最大限尊重し、あわせて、多様な
教育の機会の確保及び整備の観点から、私立の学校への助成及び私立の学校に在籍す
る者への支援に努めなければならない。

第十条(家庭における教育)
 家庭における教育は、教育の原点であり、子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自
制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすことを期待される。保護者は、
子どもの最善の利益のため、その能力及び資力の範囲内で、その養育及び発達につい
ての第一義的な責任を有する。

国及び地方公共団体は、保護者に対して、適切な支援を講じなければならない。

国及び地方公共団体は、健やかな家庭環境を享受できないすべての子どもに対して、
適当な養護、保護及び援助を行わなければならない。

第十一条(地域における教育)
 地域における教育においては、地域住民の自発的取組が尊重され、多くの人々が、
学校及び家庭との連携のもとに、その担い手になることが期待され、そのことを奨励
されるものとする。

第十二条(生涯学習及び社会教育)
 国及び地方公共団体は、国民が生涯を通じて、あらゆる機会に、あらゆる場所にお
いて、多様な学習機会を享受できるよう、社会教育の充実に努めなければならない。

国及び地方公共団体が行う社会教育の充実は、図書館、博物館、公民館等の施設と機
能の整備その他適当な方法によって、図られるものとする。

第十三条(特別な状況に応じた教育)
 障がいを有する子どもは、その尊厳が確保され、共に学ぶ機会の確保に配慮されつ
つ自立や社会参加が促進され、適切な生活を享受するため、特別の養護及び教育を受
ける権利を有する。国及び地方公共団体は、障がい、発達状況、就学状況等、それぞ
れの子どもの状況に応じて、適切かつ最善な支援を講じなければならない。

第十四条(職業教育)
 何人も、学校教育と社会教育を通じて、勤労の尊さを学び、職業に対する素養と能
力を修得するための職業教育を受ける権利を有する。国及び地方公共団体は、職業教
育の振興に努めなければならない。

第十五条(政治教育)
 国政及び地方自治に参画する良識ある真の主権者としての自覚と態度を養うことは、
教育上尊重されなければならない。

法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その
他政治的活動をしてはならない。

第十六条
(生命及び宗教に関する教育)
 生の意義と死の意味を考察し、生命あるすべてのものを尊ぶ態度を養うことは、教
育上尊重されなければならない。

宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の意義の理解は、教育上重視
されなければならない。

宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなけれ
ばならない。

国、地方公共団体及びそれらが設置する学校は、特定の宗教の信仰を奨励し、又はこ
れに反対するための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

第十七条
(情報文化社会に関する教育)
 すべての児童及び生徒は、インターネット等を利用した仮想情報空間におけるコミュ
ニケーションの可能性、限界及び問題について、的確に理解し、適切な人間関係を構
築する態度と素養を修得するよう奨励されるものとする。

すべての児童及び生徒は、文化的素養を醸成し、他者との対話、交流及び協働を促進
する基礎となる国語力を身につけるための適切かつ最善な教育の機会を得られるよう
奨励されるものとする。

すべての児童及び生徒は、その健やかな成長に有害な情報から保護されるよう配慮さ
れるものとする。

第十八条(教育行政)
 教育行政は、民主的な運営を旨として行われなければならない。

地方公共団体が行う教育行政は、その施策に民意を反映させるものとし、その長が行
わなければならない。

地方公共団体は、教育行政の向上に資するよう、教育行政に関する民主的な組織を整
備するものとする。

地方公共団体が設置する学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参
画する学校理事会を設置し、主体的・自律的運営を行うものとする。

第十九条
(教育の振興に関する計画)
 政府は、国会の承認を得て、教育の振興に関する基本的な計画を定めるとともに、
これを公表しなければならない。

前項の計画には、我が国の国内総生産に対する教育に関する国の財政支出の比率を指
標として、教育に関する国の予算の確保及び充実の目標が盛り込まれるものとする。

政府は、第一項の計画の実施状況に関し、毎年、国会に報告するとともに、これを公
表しなければならない。

地方公共団体は、その議会の承認を得て、その実情に応じ、地域の教育の振興に関す
る具体的な計画を定めるとともに、これを公表しなければならない。

前項の計画には、教育に関する当該地方公共団体の予算の確保及び充実の目標が盛り
込まれるものとする。

地方公共団体の長は、第四項の計画の実施状況に関し、毎年、その議会に報告すると
ともに、これを公表しなければならない。

第二十条(予算の確保)
 政府及び地方公共団体は、前条第一項又は第四項の計画の実施に必要な予算を安定
的に確保しなければならない。

第二十一条(法令の制定)
 この法律に規定する諸条項を実施するため、必要な法令が制定されなければならな
い。

(附則)第一条(施行期日)
 この法律は、公布の日から施行する。ただし、第十八条第二項から第四項までの規
定は、別に法律で定める日から施行する。

(教育基本法の廃止)
第二条 教育基本法は、廃止する。


民主党が独自案を出したということは教育基本法の見直しには賛成ということである。
中身は読めばわかるが、大同小異なのであり、
要は「手柄」を自分のものにしたい、
野党共闘で自民党の評判を落としたい、
というだけのもののようである。

で……実際は基本法そのものの論議よりも、関連質問の方に力が注がれているようだ。
関連とは、いじめ、未履修、やらせ、の三本柱で与党のイメージダウンを図る戦略だ。
マスコミも一緒になって、政府を攻撃している。
そんなことにパワーを注いでなんの意味があるのだろう。

ちゃんと条文を全てありのままに紹介し、解説することがまず大切なことなのである。
これは政府にゴマをするということじゃなくて、マスコミの使命であろう。
テレビ局の方針や評論家の意見は二次的でなければならない。
国民の意識を意図的に彎曲誘導しているのはマスコミの方だとつくづく感じるのだ。

これらの条文を探すのはちょっと面倒だった。
それじゃいけないのじゃないか
と思うのは私だけだろうか?


いじめ撲滅の特効薬とも思える本を買いました。
「君を守りたい」
 * 出版社  : 朝日新聞社出版局
 * 出版年  : 2006.09
 * 税込価格 : 1,050円
プロローグ「学校は涙であふれている」
第1章 いじめを即刻、停止させるには?
  ・学校で襲われた女子中学生の悲劇 
  ・少年院の教育で鬼畜たちは人間に戻るか?
  ・いじめの実態は「恐るべき犯罪」、学校は全くの「無力」
  ・学校が”いじめ”を見逃したために被害者は「自殺」
  ・「シャモリンチ」など、いじめの手口は巧妙・残酷
  ・”葬式ごっこ”から20年、なぜいじめは続くのか?
第2章 「鬼畜の心」に人間教育は通じない
  ・人間教育では「いじめ問題」を解決できない! 
  ・小中学生に広まる“いじめ”が原因の深刻なうつ病
  ・フリースクールは「不登校」の子どもたちの避難所
  ・「いじめ宿命論」が被害者救済を阻み、いじめを助長する
  ・いじめと対決する教師たちの深刻な力量不足
第3章 いじめは犯罪だ
  ・いじめとはまさに“学校犯罪”なのだという認識をもつこと 
  ・学校から去る被害者、居座る加害者という矛盾
  ・警察力を学校に導入し、断固たる少年司法で裁く
  ・いじめられた生徒を守るため、加害生徒を退学処分に
第4章 こうして「いじめ」は消滅する
  ・アメリカ教育界はなぜドッジボールを禁止するのか? 
  ・「ゼロ・トレランス」(不寛容)方式の衝撃
  ・スクールカウンセラーとスクールポリス
  ・「君を守り隊」の成功
  ・これが切り札! いじめ情報収集部と校内パトロール部隊 
  ・え、小学生でも少年院に入れちゃうの?
  ・被害生徒の視点に立てば、加害生徒の立ち直りは二の次
  ・歴史に埋もれた「人権主義」の正体
  ・やがて「人権=犯罪者の権利」という図式が出来上がった
  ・最終解決は人間教育か、正義のルールか
座談会 「お父さん、この学校にはいじめがないんだよ」

読物としての本の出来自体は余り上質とはいえないかも知れないし、中身ももっと
濃いものを期待したが、熱意だけは十分に感じ取ることが出来た。
もっと小冊子にして学校や教育委員会、警察などに配布したら良いかも知れない。

本書の主旨は全く曖昧な表現がなく、明解である。
『いじめ=犯罪に対しては,ためらうことなく警察力を導入し,断固たる少年司法で
裁く必要がある』
というものであり、まったくもって同感だ。

いじめがなくならない根本的原因については、東京都知事や金八先生役の俳優が言う、
「少々のことでへこたれない精神力を養いなさい」という「いじめ」自体を肯定した
発言が代表格である。いじめられるのも勉強のうちだという、いじめ加害者を野放し
にすることを世間に影響を与える立場の人がほざいている限り、
いじめは不滅なのだ。
いじめの犯人への断固たる裁きがなければ、いじめはなくならない。

この本の感想をネットで見つけた。
いじめとは、学校問題などではなく、刑事事件なのだという著者の主張には全面的に
賛成。学校には捜査権がない。確信犯のいじめに対して学校の取れる選択肢は多くは
ないのだ。悪質ないじめに対して、躊躇せず警察へ通報せよという著者の主張は、
”人間は分かりあえる”と教えてきた教育学者達、「思いやり」や「命の大切さ」を
教えるべきだと叫ぶ人権派マスコミには受け入れられないだろうけれど、現実と向き
合っているのはどちらなのか。

いじめ自殺者は毎日のように発生し、今日も相変わらずテレビで、人の気持になって、
いじめをなくそう、というスタンスで番組が作られていた。
加害者をどうするのかという、本当のことを誰も言えないのだ。
「加害者」を駆逐していくような報道は全くないのである。
加害者の心の救済など(無駄だろうが)、あとでゆっくり時間をかけてやったらいい。
すぐにやらなければならないのはいじめ犯罪の捜査をし、犯人を捕まえることなのだ。


いじめ提言、29日取りまとめ=教育再生会議が分科会

 政府の教育再生会議(野依良治座長)は27日午前、教育改革の理念や方向性など
中長期的な課題を検討する「教育再生」分科会の初会合を都内のホテルで開催した。
いじめ問題に関する緊急提言の原案を事務局が提示。29日の全体会合で取りまとめる方針を確認した。

やっと、まともな対策を考えるようになったな、と正常な物の考え方が出来る人間が
政府に居ることで、ほっとした気分だ。

こういう提言には、必ず「反対意見」が付きものである。大論争となるであろう。
しかし、断言する。
反対意見は「それでは他に良い方策があるのか」というと「何もしないこと」である、
という結果になることは明らかなんである。
「政治が悪い」とか「学校が悪い」とか「時代が悪い」とか評論はいくらでも出来る。
だから、みんなで「考えましょう」という結論になるのがオチなのだ。

「考えましょう」という結論ほど無責任なものはない。
考えても何も変らない。行為が伴わないと結果は生まれない。
飲酒運転しないようにしましょう、とキャンペーンを行っても人間の心を持たない
ヤツらはいくらでもやるんだ。いじめだって同じ。
こういう連中は「罰」を与えなければダメだ。

飲酒運転するヤツは、まず第一に運転出来ないように処罰するしかないだろう。
免許を取り上げて、あとは悪事レベルに応じて刑務所に隔離するしかないだろう。
いじめをするヤツは、まず第一にいじめが出来ないように処罰するしかないだろう。
学校に来させないで、あとは悪事レベルに応じて少年院に隔離するしかないだろう。

いじめられている子供は将来の美しい日本を構成する大切な優しさを持った人間だ。
いじめなどを行うガキは、この世に生まれて来たことが間違いなので、生きている
値打がなく、害虫以下の存在だ。大人になっても社会に害毒をまき散らす存在だ。
「いじめている子供も、いじめられている子供も大切な人間」というきれいごとを
言ってても何も改善されっこない。理想論は理想的な人間にしか通用しない。

いじめ問題に関する緊急提言の29日以降の動きに期待したい。
また、どんなアホども(これも害虫の一種)が反対をするのかも見届けたい。


「大局観」という言葉がある。語源は囲碁や将棋の世界から生まれたのかも知れない。
この言葉は非常に大きい意味を持っていると私は思う。
人生は長いのだ。と思うことで随分と救われることが多い。
子供の頃は「宇宙は広い、どんな出来事も些細なものだ」という感覚を持っていた。
そのように考えないと、とてもこの世で心安らかに生きていられない。

常に先のこと(将来)を考えて行動すればよいのだが、なかなかそうはいかない。
こんなことを腹立ちまぎれに言ってしまっては、以後の気まずさで後悔するかも、と、
いう判断がとっさの時にはなかなか出来ない。
そんなことをしちゃっても許してくれたのは、母や祖父母だった。包容力の違いだ。
親父は理不尽な権力者であって暴力も振るうし正論は通じないのだが、こういうのと
生活することで社会勉強になったはずだ。

心が形成されていく過程では、強要されることへの我慢を学ぶ必要がある。
たとえそれが、押しつけであっても、じっと耐え忍ぶ習慣も身につけることが肝要。
だって、会社員になれば使われている身であって、定時に出勤しなきゃいけないのだ。
自分は、毎日、決まりきったことの繰り返しはいやだ、自由に生きたいという人には、
そういう職業もあると思うが、特殊な仕事は狭き門であって、通常は選べない。
だから一律にみんなと同じ行動を強要される。我慢出来ないのは不幸なことになる。

国旗掲揚で起立を強要する。国歌斉唱を強要する。これらは個人の自由を束縛する。
心の問題なので、国家が介入してはいけない、などと教師の一部がほざいている。
起立して国旗を仰ぎ君が代を歌うと、子供が戦争をしたくなるとでもいうのだろうか。
馬鹿馬鹿しくて話にならない。どこからそんな屁理屈が出て来るのだろう。

国旗掲揚と君が代斉唱を学校行事で必ず行うことを私は推奨するつもりはない。
本来は地方自治体が決めるのではなく職員会議で行事の議事進行案を策定すればいい。
そこで「やる」と決まったら、全員が協力し、徹底しなければならない。
教育の現場で「ご賛同頂ける方はご起立願います」なんて進行が言っているのだから、
いじめでも何でもありなんだと馬鹿少年が思っても不思議ではない。
「いじめ反対に、自分は賛同しないから、いじめても良い」という意見があっても、
教師は自分の行動(国旗国歌否定)との矛盾で何も制止出来ないのではなかろうか。

子供は分っているのだ。国旗国歌否定は単なるこじつけであって、体制に反撥をして
面白がっているに過ぎないことをお見通しなのだ。
先生が体制に反撥することを薦めるなら、オレもやってみようと思うのが当然なのだ。
教育というものはもっと毅然とした一貫性がなければならない。
教育の場なんだから、個人の嗜好などで自由に振る舞うことを許すべきではない。
押しつけだ、というのであれば、義務教育自体が押し付けなんである。
教育を受けない自由、教育を受けさせない自由、というものは日本では存在しない。

世の中は自分の思うようにはならない。なにが不自由でなにが自由なのかを理解し、
折り合いをつけることも人生勉強なんである。
学校へは修行に行くのであって、自由に好きなことをしに行く場所ではない。
押しつけとか強要とかいうけど、教育とはそういうものなのである。
押しつけでも国語は教えなきゃ本も読めないし、強要でも算数が出来なきゃ働く事も
出来やしないんだから、そういう面があって当たり前なんである。
学校は必要なことは押し付けて強要しなきゃダメなのだ。

別の視点から考えると世の中を悪くしたもっとも罪作りな法律が「少年法」である。
少年法は「悪質な少年を守り、善良な少年を虐げている法律」なのだから。
罪を犯した少年を保護するのであって、善良な少年は被害にあっても泣き寝入りだ。
こんな馬鹿げた法律はない。さっさと撤廃すべきだ。
善良な市民を悪から守ることが最優先であることが何故高学歴の有識者に分からない
のか不思議である。人権とはそういうものではない。
これだって子供はお見通しの確信犯なのだ。大人になるまで何やっても罪にならない、
こんな特権を活かさなきゃソンだと思って極悪非道を平気でやってるのだ。

少年刑務所というものを作るべきだ。運営費用は加害者の親から徴集すればいい。
いじめとか少年犯罪なんてものは昔からあるが、少年法の存在がある限り減らないの
ではないかと思う。少年犯罪促進法なのだから。
被害者の本人や肉親は少年法の存在が憎くて仕方ないだろう。
こんなに不公平な基本的人権を踏みにじった法律はないと思う。


昨日、少年刑務所を作って、そこへ悪質な少年犯罪者をぶちこめばいいと書いたが、
既に少年刑務所というものは実在することがわかった。不勉強だった。

しかし、一般には余り知られていないのは、ここで服役する少年の数が少ない。
全国で8ケ所あるのだが、20歳未満は7人しか入っていないそうだ。
せっかくの設備なので、少年以外も入っており、実態は青年刑務所になっている。
何故、少年はほとんどここに入れられないのかというと、少年法55条というものが
存在するからである。
↓↓↓
第55条 裁判所は、事実審理の結果、少年の被告人を保護処分に付するのか相当で
あると認めるときは、決定をもつて、事件を家庭裁判所に移送しなければならない。

これでは、殆どの場合は温情的な配慮で保護処分になってしまうものと推察される。
温情は善良な少年に適用してほしいものだが、鬼畜のようなガキに適用されるから、
少年院出身者の24%が再び犯罪を犯している。
特に、14〜16歳の凶悪少年の再犯率は何と46%。矯正にもなっていない。
(仮に矯正したところで殺された人は生き返るわけではないが)。
少年法とはもともと太平洋戦争で両親を失って孤児になった子供を守るための法律。
あの当時は食糧難・闇市が横行する時代だったからそれなりの必要はあったが、ここ
十数年の凶悪な犯罪とは全然関係ない。
つまり時代にあわなくなっている。どう考えても少年法は時代錯誤。

政府の教育再生会議が29日にまとめる「いじめ問題への緊急提言」が28日明らか
になった。提言は8項目。
いじめをした児童・生徒に対する「出席停止」は、「子どもにストレスがかかる」
(委員)という懸念などから明記は見送る。
ただし出席停止措置を念頭に「指導、懲戒の基準を明確にする」ことで、学校内の規
律確保を目指す。
 問題の児童・生徒は、学校教育法に基づき市町村教委が出席停止にできる。
こうした規定の厳格適用でいじめ被害の子どもを守る姿勢を打ち出す。
いじめに加担したり、いじめを放置した教員に懲戒処分を適用することや、いじめを
見て見ぬふりをする子どもも「加害者」と明記し、徹底指導を促す。

「出席停止処分」は提言の「目玉」と私は感じたが、この文言を削除しちゃっては
「仏作って魂入れず」であり、これでは効果を期待出来ない。
また、文部科学相は「出席停止は乱暴で、慎重に対応してほしい」などと述べていて、
改革には極めて消極的である。
何事も「ことなかれ主義」で乗り切ろうとしているのだ。
政府〜地方の教育委員会〜学校は、とにかく、自殺騒ぎだけは収まってほしいだけで、
いじめ自体の解決なんか本気で誰も取り組もうとしていないようだ。

「名誉毀損罪」、「侮辱罪」、「傷害罪(精神的なものも含める)」、「強要罪」、
「暴行罪」、「暴行傷害の教唆」、「現場助勢罪」、「恐喝罪」、「器物破損罪」、
「強制わいせつ罪」、「強姦罪」、「強姦致傷罪」、「傷害致死罪」などなど……
成人の場合には確実に懲役刑となるべきこれらの行為が学校で行われると、いじめと
いう極めて軽い言葉に置き換えられてしまう。恐ろしいことである。
おまけに学校も教育委員会もこれら犯罪を隠ぺいし犯罪者天国作りに加担してきた。
これは教育の問題ではなく、犯罪防止策として扱うべきことだったのである。

「罪を犯してはならない」これは人間の基礎であり、幼年期から躾けなければだめ。
それが出来ていないガキには学校で他の勉強をすること自体が無意味である。
だから、出席停止で良いのだ。鬼畜ではない人間に育て直してから出席させなきゃ、
国語・算数・理科・社会など教えるのは、その後でいいのだ。
それで何年か進級が遅れても本人が未熟だったのだから仕方がない。自業自得だ。

 首相は教育再生会議総会で「いじめは社会全体で真剣に取り組むべきだ。政府も
真摯に受け止め、提言を具体化するよう努力したい」と語った。
この緊急提言の具体化で少しは「いじめ」が減ることを期待したい。


◆政府の教育再生会議が29日まとめた緊急提言は次の通り。
--------------------------------------
 「いじめ問題への緊急提言」
 すべての子どもにとって学校は安心、安全で楽しい場所でなければなりません。保
護者にとっても、大切な子どもを預ける学校で、子どもの心身が守られ、笑顔で子ど
もが学校から帰宅することが、何より重要なことです。学校でいじめが起こらないよ
うにすること、いじめが起こった場合に速やかに解消することの第1次的責任は校長、
教頭、教員にあります。さらに、各家庭や地域の一人一人が当事者意識を持ち、いじ
めを解決していく環境を整える責任を負っています。教育再生会議有識者委員一同は、
いじめを生む素地をつくらず、いじめを受け、苦しんでいる子どもを救い、さらに、
いじめによって子どもが命を絶つという痛ましい事件を何としても食い止めるため、
学校のみに任せず、教育委員会の関係者、保護者、地域を含むすべての人々が「社会
総がかり」で早急に取り組む必要があると考え、美しい国づくりのために、緊急に以
下のことを提言します。

(1)学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことで
あり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。
<学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を><徹底的に調査
を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す>

(2)学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然と
した対応をとる。<例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など、規律を確保
するため校内で全教員が一致した対応をとる>

(3)教員は、いじめられている子どもには、守ってくれる人、その子を必要として
いる人が必ずいるとの指導を徹底する。日ごろから、家庭・地域と連携して、子ども
を見守り、子どもと触れ合い、子どもに声をかけ、どんな小さなサインも見逃さない
ようコミュニケーションを図る。いじめ発生時には、子ども、保護者に、学校がとる
解決策を伝える。いじめの問題解決に全力で取り組む中、子どもや保護者が希望する
場合には、いじめを理由とする転校も制度として認められていることも周知する。

(4)教育委員会は、いじめにかかわったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒
処分を適用する。<東京都、神奈川県にならい、全国の教育委員会で検討し、教員の
責任を明確に>

(5)学校は、いじめがあった場合、事態に応じ、個々の教員のみに委ねるのではな
く、校長、教頭、生徒指導担当教員、養護教諭などでチームを作り、学校として解決
に当たる。生徒間での話し合いも実施する。教員もクラス・マネジメントを見直し、
一人一人の子どもとの人間関係を築き直す。教育委員会も、いじめ解決のサポートチー
ムを結成し、学校を支援する。教育委員会は、学校をサポートするスキルを高める。

(6)学校は、いじめがあった場合、それを隠すことなく、いじめを受けている当事
者のプライバシーや二次被害の防止に配慮しつつ、必ず、学校評議員、学校運営協議
会、保護者に報告し、家庭や地域と一体となって、解決に取り組む。学校と保護者と
の信頼が重要である。また、問題は小さなうち(泣いていたり、寂しそうにしていた
り、けんかをしていたりなど)に芽を摘み、悪化するのを未然に防ぐ。<いじめが発
生するのは悪い学校ではない。いじめを解決するのがいい学校との認識を徹底する。
いじめやクラス・マネジメントへの取り組みを学校評価、教員評価にも盛り込む>

(7)いじめを生まない素地をつくり、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大
である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中
で、ほめる、励ます、しかるなど親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃ
ん、地域の人たちも子どもたちに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気付い
た点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。子供たちには「いじめはいけな
い」「いじめに負けない」というメッセージを伝えよう。

(8)いじめ問題については、一過性の対応で終わらせず、教育再生会議としてもさ
らに真剣に取り組むとともに政府が一丸となって取り組む。
------------------------------------------------

非常に真面目にいじめ問題に向き合った建設的な提言だと私は評価する。
マスコミもこの真意を汲み取って各家庭に直結する役割を担って意義のある報道をし、
率先して、いじめ問題の解決に邁進してほしいと感じた。
ところが、
昨夜のテレビ朝日/報道ステーションを見て、私は呆れ、同時に怒りを覚えた。
メインキャスターの
古舘伊知郎の発言では、
「これは現場を知らない連中の作文であって効果は期待出来ない。教育というものは
先生と生徒の間の熱い思いで作られるべきでテキストなどの押しつけは逆効果だ」

というような主旨であった。

キャスターというキャラクターの人気を維持する為に権威に逆らう言葉を吐くことで、
カッコ良さを狙っているのだろうが、熱い思いを醸し出す、なんてことで解決すると
本気で思っているなら大馬鹿者である。
教育現場の何を知っているつもりなんだろう。
無責任な立場だからこういう寝言を言っていられるのだ。
こういう言動がいじめ被害者を救済する活動の妨げになることに気づかないのだ。
他の局でも、似たりよったりで、概ね批判的、懐疑的な扱いをしていた。

そんな中で孤軍奮闘とも思えたのは、なんと、みのもんた氏であった。
「出席停止の文面を外したのは残念だが、非常に良い提言だ」と好評価を下していた。
TBSテレビ「みのもんたの朝ズバッ!」での発言だが、自宅待機だって意義があり、
この機会に親子でじっくり話し合うことも大切なんだ。いじめをする生徒は家庭にも
問題があることが多いはず、という核心を突いたコメントがあって、思わず、私も、
そうだ、そうだ、と相槌をうってしまった。

私は、学校の生徒会活動で何か出来ないのだろうかと思ってしまう。
団塊の世代で、2100人というマンモス中学校の生徒会会長をしていた経験からも、
生徒同士の連携で自主的にいじめを防ぐことを取り組むことが可能だと思う。
顧問の先生を置いて、よりきめ細かな状況の把握やケースバイケースの対応が可能に
なると思う。学問だけを教わるのが学校ではないのだ。

高校に入ってすぐに、補導委員というのをやらされた。
最初はお互いのことをわからないだろうから、ということで担任の先生が決めたのだ。
冗談じゃないよ、CIAのようなスパイ活動をやるのかと思ったらそうじゃなくて、
起立、礼、のかけ声をやるので、ああ級長のようなものか、と思っていたら、早朝に
門の脇に立って遅刻者のチェックを交代でやらされた。
顔見知りだと、どんどん大目に見るようないい加減なものだったが、生徒にさせると
いうことはよかったのかも知れない。他には何も問題や事件は起きなかった。
工業高校なんで、卒業すればすぐ就職であり、月謝の安いことで人気のあった公立は、
お金持ちのお坊っちゃん、お嬢さんや、いかれたガキなんかいなかったからだと思う。
今はどうなのかわからないが……。

小学校の4年までは無茶苦茶いじめられたが相手は大概一人であったし、その理由も
よくわかった。
当時は環境に対する僻みで、自分より裕福な子をいじめるのだ。
けっして自分の家が裕福とは思えなかったのだが、イジメっ子の家に遊びに行くと、
それはそれは悲惨な状況がよくわかったものだ。
生きていくのがやっとであり、給食費も払えず、遠足にも行けず、こども預金にも
入れない、そういうのを目の当たりにすると自分の無神経さにも気づくのだった。
いつもいじめてたヤツといつのまにか友達になっていた。むこうも関心があったから
いじめてたのだ。そういう時代のいじめとは現代は本質的に違うのだろう。