ごあいさつ

みなさま今日は、ザ・ピーナッツです。
すっかり暖かくなって来ましたネ。
私達寒さに弱いので夏が来ると思うと、とっても嬉しいの。
今度宝塚映画「わてら祇園の舞妓はん」の撮影に入るので、
お母さんともしばらくお別れ。
最近私達ヒマを見てはお料理をやっています。
もっとも卵料理ばかりなのよ。
エッ結婚の準備ですって? とんでもない。
今の所、歌や踊りの勉強のことで頭がいっぱいです。
これからもうんと張り切ってやりますから、これからも
どうぞヨロシクネ。

ピーナッツの”私と私”に次ぐニ本目の出演映画

 豪華な都おどりの舞台で踊る舞妓姿のトリ子(伊藤エミ)を眺めながら、
母親の綾子は妹のヒナ子(伊藤ユミ)もいてくれたら、と思った。ヒナ子は
数年前、綾子とトリ子を祇園に残したまま東京へ飛び出し、ジャズ歌手として
成功していた。
 そのヒナ子が、京都での公演のため帰って来た。トリ子は自分と異なり、
好きな道へ進んだヒナ子が妬ましかった。彼女も歌手になりたかったし、また
その才能もあると自負していた。
 ヒナ子は編曲家兼バンドマスターの川中が好きだったが、川中は女性との
付き合いは遊びだと割り切るプレイボーイだった。京都に同行していた彼は、
彼女に結婚するつもりはないといった。動揺したヒナ子は車を飛ばし、事故を
起こして入院してしまった。
 トリ子はヒナ子のリサイタルに彼女の替え玉として出演させられ、成功して
しまう。この事は姉妹愛の美談として伝わるが、ヒナ子はひどく自尊心を傷つ
けられる。
 その後、トリ子は段々と成功したが、恋と仕事に失敗したヒナ子は祇園に
戻り、母を手伝った。
 トリ子はある寺の長男である道照が好きだった。彼は経をあげるかたわら、
観光客のガイドをする現代青年だった。しかし、歌手として成功したトリ子は
道照に会う機会が少なくなり、逆に今度はヒナ子が彼に好意を示し始めた。
二人の、妹のように可愛い女から慕われた彼は、二人のうち一人を選ぶことは
できなかった。
 そんな時、二人の前に、母の前夫……彼女達の父がハワイから帰ってきた。
子供と綾子をハワイに引き取って暮らしたいのだという。だが綾子には現在、
別に恋人があった。
 夢に迄見るハワイだったが、二人は母の立場も思い、どう身を施したものか、
と可愛い胸をいためるのだった……。
(写真--平凡スタジオにて撮影)
(宝塚映画)

ピーナッツのプロフィール

 ザ・ピーナッツは、芸術品だと思います。おそらく、これだけ完全に作られた
芸術品も珍しいのではないでしょうか?
プロダクション活動のなかで、ザ・ピーナッツのようなタレントが生まれたのは
特筆大書していいことだと信じています。
 いうまでもなく、ザ・ピーナッツは、渡辺プロダクションの渡辺晋社長、美佐
副社長の夫妻によって、発見され、育てられ、スターに仕上げられました。
“ロカビリー・ブーム”の後を受けて”コーラス・ブーム”を作り上げたのは、
渡辺プロの非凡な企画力ですが、そのブームと共に成長し、ブームをさらに前進
させたのがザ・ピーナッツです。さきほど”芸術品”と書きましたが、私が言い
たいのは、それがちゃんとした目的と、見通しを持って作られたタレントである
ということです。
”芸術品”がそうであるように、はじめから計画されたタレント…その今日的な
プランの見事さこそ、ザ・ピーナッツの今日を支える最も大きなポイントと言う
べきです。
 たとえば、デビューの「可愛い花」の選曲を考えてごらんなさい。四年前、ハ
イティーンだった彼女らは、文字通り”可愛い花”でありました。決して美人だ
とは思えませんが、その丸ポチャの庶民的な顔立ちと可憐な歌声とは、まことに
“可愛い花”そのものだったのです。この曲のイメージの見事な的中は、すでに
ザ・ピーナッツのスター性を十二分に保証するものでした。「チャッキリ・チャ
チャチャ」「情熱の花」とつづく一連のヒット曲は、彼女らの持つ楽しい雰囲気
をいやが上にもあおり立てたのです。

 一卵性双生児ということをこれほど有効適切に利用したタレントも芸能史には
見当たらないでしょう。かって、コロムビアに山本和子・照子の双生児歌手がい
て、なかなかの美人でしたし話題になったこともあったのですが、これをコーラ
スに仕立てることには思い及ばず、その後結婚などによって何となく姿を消して
しまいました。
 “ウリ二つ”という一卵性双生児の特色を、巧みに生かしたザ・ピーナッツの
登場によって、色合いこそ全く対照的ですが、こまどり姉妹はじめ、その後いろ
んなコーラス・チームの出現でにぎわいました。まことにザ・ピーナッツのパイ
オニアとしての役目は大きかったのです。
 いま、ここに、こまどり姉妹をあげましたが、ザ・ピーナッツを考える場合、
こまどりとからませると、その特徴がよく判ります。
ザ・ピーナッツは、もちろんバタ臭いポピュラー畑が得意。これに対して、こま
どりは、完全に演歌調の”はやりうた”スタイルが身上です。前者が極めて明る
い現代性を示せば、後者は大変にウエットな”泣き節”で日本調の伝統を聞かせ
ます。ザ・ピーナッツが、渡辺プロの製作している「ザ・ヒット・パレード」(
フジテレビ)を中心とするテレビ番組からのし上がったのに比べると、こまどり
は浅草の流しからスタートして、主に地方回りの実演から身を起こしました。
 伊藤姉妹がのびのびした澄んだ可憐な歌声で年若い(場合によっては年少の)
ファンを獲得しましたが、こまどりは小節のきいた哀れっぽい声で年輩のハート
を温まらせるのです。何から何まで対照的で、映画に出演してもザ・ピーナッツ
は東宝(または東宝系の東京映画、宝塚映画)でモダンな作品が与えられ、こま
どりは東映で泣かせる映画が主になっています。この二つのチームの競争は、日
本のレコード界を象徴するものといっていいでしょう。

 最近、ザ・ピーナッツがレパートリーをひろげています。大先輩江利チエミの
ヒット曲「カム・オン・ナ・マイ・ハウス」や「テネシー・ワルツ」さらには、
「バイヤ・コンディオス」などを、ちゃんとピーナッツ節できかせています。
おめずおくせず、ジャズ歌手ナンバー・ワンのチエミの持ち歌と取り組み、これ
を見事に歌いこなしているのです。ちょっと、常識では考えられないようなこと
ですが、ザ・ピーナッツは、まことに堂々と歌い上げていて、実力の程を示して
います。彼女らは、ほんとに巧いチームです。”巧い”というと、とかく”悪達
者”に流されがちですが、ザ・ピーナッツは、決してそうではないのです。私は、
彼女達の”しなやかさ”が、その原因だと思っています。歌声もしなやかならば、
結構踊りもこなす体もしなやか。私生活も若い娘さんらしく明朗ですし、渡辺プ
ロの企画にうまくとけ込んで巧く、態度もまた、しなやかです。
 ”渡辺プロの箱入り娘”といったひ弱さがないでもありませんが、少なくとも
いろんな企画(ステージといわず、映画といわず、もちろんレコードまた然りで
す)に”しなやかに”順応してゆく才能は、やはり大したものだと思います。
 国際的にも通用するスターへ……この目標が、ザ・ピーナッツをさらに前進さ
せることでしょう。

 まいにち、まいにち忙しいピーナッツ!。そして仕事熱心なピーナッツにも
ふっと一日位お休みが出来るときがあります。
 映画、テレビ、ラジオその合間には劇場出演と休む暇もないピーナッツなので、
お休みといえばまず眠ることというピーナッツの起床はお昼頃。お天気の良い日
などお庭へ出て、丸いピーナッツとは対照的な長い顔のコリー種の愛犬ビリー、
ピリーと遊んだり、レコードをかけたりしていると、すぐ日が暮れてしまいます。
最近はゴルフを始めましたけれど忙しくて、歌や踊りのようには上達していない
ようです。
“去年はちょっとまとまってお休みが貰えたのでお母さん達と箱根に行ってきた
の、最高にゴキゲンだったわ”という二人です。
でもあんなことは年に一回位と残念そうなお母さん。一日位のお休みでは起きる
のがお昼頃なので一日が短くて可哀想みたいですけれど若さが一杯の二人にとっ
て、ちょっとでも休めば又、明日からのエネルギーが湧いてくるのでしょう。

可愛いねえ、ピーナッツ      渡辺美佐

 この頃、月並みに、
「やあ、いつ会っても可愛いねえ、ピーナッツは!」などと言おうものなら、
当のピーナッツは、
「あーら、それだけェ?!」と、声を殺し、きれいな四つの柳眉をグッと
さか立てて、左右からジワジワせめ寄って、月並みなお世辞を言った人を
困らせる。では、二人に会った時は何と言えばいいか。
その殺し文句はただ一言。
「色っぽくなったねえ」なのである。
 普通の女の子ならば、二十一才ともなれば、可愛い可愛いなどと言われて、
毎日をすごすことはないだろう。ところがピーナッツは、依然として、可愛い
可愛いの毎日なのである。
「あーら、それだけェ?!」
は、そうした世間へのせいいっぱいのレジスタンスなのである。
 実にいい反逆精神である。世俗的評価とか、通俗概念とか言ったたぐいの
ものほど、しつこくて、ガンコで、古きにたより、そう簡単には態度を変え
ないものはない。
 大いに反抗してほしい。その成果は如実に現われているのだから、オリジ
ナル・ナンバー良し、ステージ良し、映画良し、就中、TVショーで見せる
ダンスの素晴らしさはどうだろう!
 日本のジャズ・シンガーの中で、抜群の呼び声が高いピーナッツは、あら
ゆる可能性を持ったタレントである。世界中の観衆を魅了出来るタレントで
ある。
 可愛いということは、他に素直だということであり、努力家だということ
と同義である故に、これから先、タレントとしての永い寿命を保証した、賞
賛の言葉ではないだろうか。
 可愛いねえ、ピーナッツ!

ピーナッツよありがとう     ハナ 肇

 ピーナッツはいつも身近にいるせいか、徐々に成長していく二人の芸というものに
対して、僕らはわりかしニブイようであるけれども、昨年夏、梅田コマで一ヶ月間の
ロングランを続けたミュージカル「私と私」を見た時の僕の感激は今迄にピーナッツ
から受けたどの感激よりも強烈なものでした。
 大詰め近く、客席の僕はどうしても涙を流さずにはいられなくなってしまった。内
心……これはまたまずいことになってしまった、植木や犬塚に見られたらあとでまた
いびられることだろうと思いそっと見ると、ところがところがである、彼等も大粒の
涙をポロポロと流しているのである。僕も安心?してためておいた涙をドット流した
ことでした。
 客を泣かせることが出来るようになったら役者は一人前であるという。見終わって
僕らはすぐ楽屋に行きました。
「ピーナッツありがとう!」
どうしてもそう言いたかったからです。 
あらためて二人の成長に拍手を送りたかったからです。
これからも限りなく成長していくことでしょう。今後もますますガンバッテ下さい。

ピーナッツのファイトに感服    水原 弘

 今日は水原弘です。
 僕はもともと書くことが大の苦手なのですが、ことピーナッツのこととなればヘタ
でもうまく書こうと思うのが人情、ますます苦心したという次第。
 ピーナッツとはテレビやステージで、ずい分たくさんの仕事を一緒にしましたが、
今でも一番思い出に残っているものといえば、梅田コマ劇場での「私と私」でした。
 舞台を持っている僕にはさほどこの部隊が重荷とは思われなかったのですが、ピー
ナッツにとっては三時間もかかる部隊は初めてだし、僕はどうかうまくいくようにと
祈っていましたが、ピーナッツはこの僕の危惧を初日から一ぺんに吹き飛ばしてくれ
ました。
 ピーナッツのファイトにには男の僕もたじたじ、舞台の合間にも二人で芝居のこと、
踊りのことを話しあっている姿は、ほほえましくも、また仕事に対しての熱心さが感
じとれ、胸が熱くなったものでした。僕もこれからは、ピーナッツに負けないように
がんばらなければと思いました。
 ピーナッツも大いにガンバッテ下さい。

ザ・ピーナッツ・ストーリー

 早いものでザ・ピーナッツがデビューしてからまる五年以上になります。その間、
新聞、週刊誌などで問題になるようなこともなく過ごして来たということは、芸能界
ではめずらしいことでしょう。
 彼女たちの本名は、姉が伊藤日出代、妹が伊藤月子、昭和十六年四月一日、愛知県
常滑市で生まれました。
 家族は両親と姉二人、弟一人の七人で、父親は名古屋で大きな食料品の問屋さんを
営んでいました。
 女の子二人のあとに生まれたのがまた女の子、それも双生児ときたのだから両親も
ただビックリしたことでしょう。しかし両親や、お姉さん達の深い愛情で戦後の混乱
期にも影響されることなく、日出ちゃん、月ちゃんと可愛がられて大きくなりました。
 二人とも子供の時から歌や踊りが好きでまた大変上手だったようです。誰に教わる
でもなく、歌を二人で上手に歌ったり、踊りを踊っては、両親やお姉さんたちを驚か
せたことも再々ありました。この当時からこの二人には生まれついての才能といった
ものがあったのでしょう。
 中学生時代の学芸会は勿論のこと、名古屋市の西陵高校時代、毎年一回行なわれる
文化祭には、歌が好きだった二人は、良く揃って出演し、全校生徒の人気の的となり
ました。当時の同級生にその頃のことをきくと、どっちが日出ちゃんやら月ちゃんや
らてんで見当がつがず、困ったそうです。そういえば傑作だったのは、こんなことが
ありました。二人ともとてもチャーミングだったので誰にも好かれましたが、とくに
男の子には人気があり、上級生の男の子が月ちゃんに友達になって欲しいといってき
たときのこと、教室に日出ちゃんがいて、月ちゃんのつもりで話し相手になりあとで
こんがらがった、などということがあったそうです。本当に何から何まで良く似た二
人でしたが、性格は月ちゃんの方が妹のせいか、人付き合いが良く、社交性にとんで
いましたが、日出ちゃんの方はお姉さんらしく、人と話しをする時も、よく考えてか
ら返事をするといったふうでした。

 高校二年に進む頃、二人は歌で身を立てたいと本気で考えるようになり、上京して
半年くらい勉強したこともありました。その後、名古屋に帰りナイトクラブで歌って
いました。その当時はお友達に会うのが恥ずかしいと云って、あまり外出しなかった
ようです。というのは先生、お友達が「二年で中退するのは惜しい、それに芸能界は
甘くないから簡単に歌手にはなれまい」と反対されたのを押し切って学校をやめたか
らなのでしょう。
 しかし、このピーナッツにも幸運がやって来ました。名古屋のフェルナンドという
クラブに出ていた時のこと、渡辺晋とシックス・ジョーズの一行が演奏旅行で名古屋
に来ており、たまたま、渡辺晋さん(渡辺プロダクション社長)の目に止ったのです。
しかしその時はまだ幼稚だと思って、まあ一生懸命勉強しなさいという程度で帰って
きましたが、どうも気になるので、それから半年位後に奥さんの美佐さんが名古屋に
行くときに、あそこに双生児の子がいるから、見てきてくれるように頼みました。
そこで行って見た所、どうせ勉強させるなら東京でというわけで、渡辺社長の自宅に
住んで勉強することになりました。勿論素質はあったのだけれども、渡辺プロという
大芸能プロ社長の目に止ったということは、ピーナッツにとって大変な幸運だったの
です。三十三年暮に上京して、翌年二月には早くも日劇の舞台を踏んだのです。

 そして初めてレコーディングした「可愛い花」で大ヒット、一躍スターダムに躍り
出たのです。この異例のスピード出世の影には、本人たちの努力を見逃すことは出来
ません。とにかく朝から晩まで渡辺邸からピーナッツの歌声が聞こえなかったことは
なく、近所から苦情が出た位だそうです。可愛いピーナッツのどこにそんな闘志があ
るのかと思うくらい自分の芸にきびしさと限りない努力を続ける彼女たちの将来は、
日本のピーナッツから、世界のピーナッツを目指すことでしょう。現に外国から彼女
たちを呼びたいという話もニ、三あったそうです。
 自分達の魅力については、可愛さがあって、それに大人の魅力もあるというように
なりたいというピーナッツは、自分たちが可愛さだけではいけないということを良く
知っているのです。
 ザ・ピーナッツを育てた社長の渡辺晋さんは「一卵性双生児の歌手ということで、
歌う音質が同じなのでハーモニーが良い、それにものすごいガンバリ屋なので将来は、
もっともっと伸びるだろう。その上、人間的にも素直で清潔感があり、魅力がある。
これからはもっと心で歌うように勉強して世界に通じるタレントにしたい」と語って
います。
 私たちはピーナッツのそんな姿を近い将来見ることが出来るのを楽しみに待ってい
ましょう。

質問&回答総集編はこちらを→Q&Aだよ ピーナッツ

”情熱の花”といえばまず思い出されるのがカテリーナ・バレンテさんでしょう。
ピーナッツ達の歌の手本として、歌う通訳というニックネームをもらい日本でも
多くのファンを持っています。
 そのカテリーナ・バレンテが丁度、本誌発売と同時に来日しました。
来日を期にちょっと彼女の横顔をのぞいてみましょう。
 1931年11人兄弟の10番目(驚きです)としてパリに生まれ、5才で初
舞台を踏んだ、といいますから20年以上の芸歴です。
 父はスペイン系ドイツ人でコメディアン。母はイタリア人で30種類にのぼる
楽器を奏でるファンタジストというのですから、カテリーナは生まれついての芸
能人だといえましょう。
 両親と一緒にストックホルムの劇場で楽団指揮者クルト・エーデルハーゲンに
見い出されて本格的歌手としてスタートしました。
後、ポリドールからマラゲニア、アンダルシア、キェンセラ等でヒットを飛ばし、
後、テルデック社に移り、情熱の花の大ヒットを出したのも記憶に新しい事です。
 混血の美女カテリーナを映画界も見のがすはずがありません。すでにドイツで
10数本の映画に出ていますが、我が国には「カジノ・ド・パリ」一本しか入っ
ていないのが残念です。しかし、本人が来日したことでもありますので大いに満
喫して下さい。
 きっとピーナッツ達にも良いおみやげを残して行ってくれることでしょう。

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