ザ・ピーナッツとインファント(私)の歴史     

1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦

4月1日 愛知県常滑市で食料品卸業を営む伊藤家の三、四女として誕生。姉=日出代、妹=月子

生後110日

1945年(昭和20年)終戦

1947年(昭和22年)

2月22日 神奈川県横浜市でインファント誕生(長男)

1950年(昭和25年)頃

10歳の頃、NHK名古屋の唱歌隊に入っていた。

1955年(昭和30年)頃

中学2年の頃(日本舞踊を習っていた)

1958年(昭和33年)

美空ひばりのような歌手になりたくて、名古屋で歌の先生(ピアニスト:大浦郁夫)について勉強していたが、
その紹介でナイトクラブ「フェルナンド」で歌っていた姉妹の素質を巡業中に見い出した渡辺晋社長は
彼女たちをスカウトした。上京した二人は社長宅に寄宿し、歌のレッスン、や躾を
以後、デビューまでの五ヶ月間。徹底して教え込まれたのだった。

ザ・ピーナッツとしてデビューするまでは「伊藤シスターズ」という名前で
渡辺晋とシックス・ジョーズに付いて、あちこちでステージ経験を積んだ。

12月:インファント家にテレビが入る。
(来年の皇太子のご成婚祝賀パレードを見る為)

1959年(昭和34年)

「伊藤シスターズ」という名前では面白くないので日本テレビプロデューサー
井原高忠氏が「ザ・ピーナッツ」というチーム名を発案した。
初めて「ザ・ピーナッツ」の名で出演したのは2月11日〜20日の日劇コーラスパレード

伊藤エミ=姉の日出代(両目尻にホクロがある)
伊藤ユミ=妹の月子 (同じ箇所に描きボクロ→大人になってやめた)

4月にキング・レコードと専属契約し、レコード歌手デビュー。
デビュー盤の「可愛い花/南京豆売り」が爆発的ヒット。
以後、「キサス・キサス/チャキリ・チャチャチャ」
「情熱の花/米山さんから」も連続してヒット。

EP

初のLP

日劇「第三回コ―ラス・パレ―ド」(5/16〜24)にも出演

開局したばかりのフジテレビの新しい趣向の番組として
「ザ・ヒット・パレード」放送開始(6月17日)。
以後、500回を放送という長寿番組ともなり、
南京豆のハリボテの殻から登場するピーナッツの
「ザ・ヒット・パレード!」の発声から、CMソング、
「また来週まで、さようなら」の結びまでピーナッツ尽し。
レギュラーとして必ず2曲を歌うのが恒例でもあった。
放送電波の届く所の日本人ならザ・ピーナッツを
知らない人はいないという程の大変な人気であった。

ザ・ヒット・パレードはリアルタイム性と音楽の生々しさを
茶の間に届けるために、例外回を覗き、全て生放送。
放送は水曜日午後8時半から30分。後に火曜日7時からとなる。

音楽バラエティ番組「魅惑の宵」(改編前はペトリ・ジュークボックス)
日本テレビ1959/10/2 〜 1961/4/7 金曜日 22:30-23:15 
その後「夢をたのしく」に移行(ピーナッツ・レギュラー継続)

この年の10月に双子歌手の演歌バージョンが企画されて
コロンビアレコードから、並木葉子・敏子姉妹がデビュー。
初回三千枚プレスの「浅草姉妹」は当初地味な出足だったが、
2年後には「こまどり姉妹」という芸名も付き、大成長した。

<ジャズ・アット・ザ・日劇>出演 昭和34年9月23日〜29日

12月31日 新人歌手としては前代未聞。当時では異例のスピード
 NHK紅白歌合戦に出場し「情熱の花」を歌う。
 以後、引退の前年まで、16回連続出場。

映画出演:
 素晴らしき19才(松竹)  実は熟したり(大映)  可愛い花(日活)
 檻の中の野郎たち 暴れん坊森の石松 爆笑水戸黄門漫遊記(東宝)

1960年(昭和35年)

日劇2月公演 「ラテン・フィエスタ」出演 1960年(昭和35年2月13日〜20日)

ザ・ピーナッツ後援会発足  会報を見るザ・ピーナッツ ↓

日劇で初のザ・ピーナッツ公演「第一回ピーナッツ・ホリディ」(6.1〜8)

名古屋で「ピーナッツ故郷へ帰る」イベント実施。(9.9〜12)

  EP

  LP

NHK紅白歌合戦「悲しき16才」(2回目出場)

映画出演:
 万年太郎 地獄の風車 消えた密航船(東映) 女は抵抗する(大映)
 続・番頭はんと丁稚どん お夏捕物帖第二話通り魔 情熱の花(松竹) 唄祭ロマンス道中(東宝)

1961年(昭和36年)

日本テレビ系列で伝説のバラエティ「シャボン玉ホリデー」放送開始(06/04〜)

例外的な放送を除き全て初回からカラー・ビデオ放映であった。
番組制作費に匹敵する高価なテープの為、上書き収録されたので殆どビデオ映像は現存していない。

インファント少年〜青年はシャボン玉ホリデーを
全回欠かさずに見た。番組途中からということもなし。
これは狂気の沙汰ともいえるが命の次に大事な番組でした。

ニッポン放送「ザ・ピーナッツ」オンエア開始。以後5年ほど続く。
(日曜を除く毎日:朝7:00〜7:10)
今となっては知る人は少ないかもしれないが……
毎月、ザ・ピーナッツのための書き下ろしオリジナル曲をという企画から、
この番組で岩谷時子さんと宮川泰さんの「今月の歌」コンビが生まれ、
「ふりむかないで」など多くのヒット曲の発祥となった記念碑的番組である。

お正月は新春スターパレード(日劇)に出演。ピーナッツと日劇は良く似合う。

日劇公演「ピーナッツ・ホリディ」は、毎年6月の恒例となった。(第2回)

NHK紅白歌合戦「スク・スク」(3回目出場)


映画出演:
 腰抜け女兵騒動 モスラ(東宝) 続々番頭はんと丁稚どん(松竹) 飛び出した女大名(大映)
 

それまでもザ・ピーナッツは九ちゃん、加代ちゃんと共に
私達の子供時代のお気に入りでしたが、モスラ映画を見た
その日(1961.7.30:夏休みの全校登校日の帰り)からは
ザ・ピーナッツの映像と歌声が脳髄の不揮発性メモリ部に
刷り込まれ(ROM化)死ぬ迄ファンで居ようと誓った。

待望のザ・ピーナッツ自宅を東京・世田谷区に新築。お隣は故ハナ肇さん宅。
父母を愛知から呼び(父は仕事の関係で多少遅れたが)同居。

1962年(昭和37年)

ザ・ピーナッツの付人だった長谷川弘子さんが、3月16日付で寿退職。
以後、井本賀子さんが、ザ・ピーナッツ引退まで付人を勤めました。

ザ・ピーナッツ成人式の記念で、オリジナル・ポピュラー曲を
ザ・ヒット・パレードでご披露。(今週のハイライトとして)
その曲名は「ふりむかないで」。和製ポップス第1号曲の誕生であった。
ちなみに宮川泰作曲のザ・ピーナッツ・オリジナル曲の発売は
前年の歌謡曲「あれは十五の夏祭り」が初レコーディングである。

ザ・ピーナッツ公演「ピーナッツ・ホリディ」は、第3回となった。

ザ・ピーナッツはマンネリだと、この頃評論されるようになったが、
インファント少年は、こんなに色々チャレンジする歌手は稀な存在で、
一体どこを見てマンネリだと言うのか理解に苦しんだ。
要するにテレビに出過ぎているという単純な意味だろうと思った。
テレビに出ないカリスマ偽装などするよりも、ファンの期待に応えて
活動するザ・ピーナッツの存在の方がずっと本格派なのではないか?
レコードだって沢山出してくれる方がどんなに嬉しいことでしょう。

映画出演:
 クレージーの花嫁と7人の仲間(松竹)
 私と私<主演> 夢で逢いましょ(東宝)

映画「私と私」は「キングコング対ゴジラ」との併映

大阪梅田コマ8月一ヶ月公演「私と私」で主演

NHK紅白歌合戦「ふりむかないで」(4回目出場)

1963年(昭和38年)

4月3日:後年のインファント(私)の奥さんが姫路市で誕生

遂に日劇お正月公演の枠も獲得。以後、正月2週目は恒例公演となった。
「初笑い 無責任だよ ザ・ピーナッツ」(新春第2弾公演)

みんなが知っているあの名曲「恋のバカンス」が誕生。

第4回ピーナッツ・ホリディは、「バカンスだよ、ピーナッツ」

ただの欧州旅行なのに見送りの大騒ぎ。そういう時代でした。
この群集の中に私もいるんです。(笑)
↓ この下準備も兼ねていたのではないかと思われます。

12月にカテリーナ・バレンテ・ショーに出演のためオーストリアへ

映画出演: 若い仲間たち/うちら祇園の舞妓はん<主演>(東宝)

大阪梅田コマ8月一ヶ月公演「うちら祇園の舞妓はん」で主演

NHK紅白歌合戦「恋のバカンス」(5回目出場)

レコード大賞編曲賞に「恋のバカンス」(宮川泰さんが受賞)

年末でザ・ピーナッツ後援会組織は(発展的?)解散。
翌年から「渡辺プロ・タレント友の会」に希望者参加となった。

1964年(昭和39年)

日劇お正月恒例公演「初笑い ほんとにクレイジィだよ! ザ・ピーナッツ」

日劇6月恒例的公演
「まこと! 6月だよ ザ・ピーナッツ」(まこととは藤田まことさんの意)

大阪梅田コマ8月一ヶ月公演「夢がいっぱい物語」で主演

西独ババリア・プロ制作「ショー・ビジネス・イン・ジャパン」出演(4月)

日本でも後日、NHK総合TVで放映された。

欧州圏で、ザ・ピーナッツは大好評で迎えられた。

西独ババリア・プロ制作「スマイル・イン・ザ・ウエスト」主演
一ヶ月間をかけて収録されたフィルム番組(75分間作品)は、
ニューイヤーズ・イヴにユーロ・ビジョンを通じて、全欧州で放映

日本でも2年後に、NHK総合TVと教育TVで放映された。
ザ・ピーナッツの歌と踊りをこれだけふんだんに魅せている
作品は日本では作られたことがない。最高の映像作品だった。

ドイツでオリジナルレコードも4曲リリース

映画出演:モスラ対ゴジラ 三大怪獣地球最大の決戦(東宝)

 

ザ・ピーナッツの演じた小美人は伝説的・絶対的に不滅だが、
共演(?)した、モスラ、ゴジラ、ラドン、キング・ギドラを
凌駕するスター怪獣は以後も登場出来ていない。
特撮怪獣映画はこれら作品をもって嚆矢と言えるであろう。

NHK紅白歌合戦「ウナ・セラ・ディ東京」(6回目出場)この年の紅白からカラー放送 開始

この年、これだけの大活躍をしたベテラン歌手はピーナッツ以外見当たらない。
それでも紅白のトリではなく、トリ一つ前。トリはあの人。

レコード大賞作詞賞に「ウナ・セラ・ディ東京ほか」(岩谷時子さんが受賞)
レコード大賞作曲賞に「ウナ・セラ・ディ東京ほか」(宮川泰さんが受賞)

ザ・ピーナッツ本人には以後も何も賞が与えられていない。
伝説のデュエットなのに、永久に「歌唱賞」も無かった。インチキじゃないの?

1965年(昭和40年)

日劇お正月恒例公演「初笑い ほんとにクレイジーだよ! ザ・ピーナッツ」

日劇6月恒例的公演
ピーナッツ・ホリデー「歌う ザ・ピーナッツ」

東京労音公演

西ドイツ:バーデンバーデン音楽祭出演

西ドイツ:シュラーゲル国際音楽祭出演

西ドイツ:ジャーマン・ヒットパレード:出演

パリで”パティ・マルコニー・レコード”にフランス語で4曲録音

ドイツでオリジナルレコードも4曲リリース

映画出演:大冒険(東宝)

NHK紅白歌合戦「ロック・アンド・ロール・ミュージック」(7回目出場)

インファント青年はこの年、工業高校を卒業、製造業に就職。
以後、同じ工場に永年勤務しているが、2007年で定年。

1966年(昭和41年)

日劇お正月恒例公演「今年もクレイジーだよ! ザ・ピーナッツ」

エド・サリバン・ショー(米国最高の人気テレビ・ショー番組)出演

1966年9月18日に全米CBS系で放映(ビデオ映像は現存)
歌は宮川泰編曲の「恋人よ我に帰れ」を歌い、欧州では
可愛らしいデザインの衣装が多かったが、こちらでは
わりと大人っぽい恰好でダイナミックに歌っています。

ダニー・ケイ・ショー出演(3回出演)全米NBC系

25歳のピーナッツだが、15〜6歳に見られたようであった。

新宿コマ公演「お帰りなさい 世界のザ・ピーナッツ」

NHK紅白歌合戦「ローマの雨」(8回目出場)

1967年(昭和42年)

日劇お正月恒例公演「初笑い クレイジーだよ! ザ・ピーナッツ」

大阪梅田コマ公演「ピーナッツ・ホリディ 二人は二人」

日劇公演:ピーナッツ・ホリデー「ジャニーズと共に!」

新宿コマ・スタジアム 3月特別公演 ザ・ピーナッツの祇園恋しや物語

イギリス・デッカ・レコードにて「恋のフーガ」をレコーディング
(イギリス・デッカ=日本でのレーベル名はロンドン・レコード)

映画出演: クレージー黄金作戦(東宝)

NHK紅白歌合戦「恋のフーガ」(9回目出場)

レコード大賞作詞賞に「恋のフーガほか」(なかにし礼さんが受賞)

1968年(昭和43年)

日劇お正月恒例公演「初笑い クレイジーだよ! ザ・ピーナッツ」

東京宝塚劇場「クレージー年忘れ爆笑公演」にゲスト出演

ザ・ピーナッツ・ショー:沖縄公演
ザ・ピーナッツ・ショー:アメリカ民音公演
(ホノルル〜サンフランシスコ〜ロスアンゼルス〜サンタモニカ)

NHK紅白歌合戦「ガラスの城」(10回目出場)

映画出演: クレージーメキシコ大作戦(東宝)

1969年(昭和44年)

ザ・ピーナッツ10周年記念公演・日劇(1月22日〜2月4日)
「世界を駈ける可愛い花 ザ・ピーナッツ・フェスティバル」

超豪華なゲスト陣(日替わり)
ハナ肇とクレージー・キャッツ
森進一
園まり
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
加山雄三
ザ・ドリフターズ
中尾ミエ
加瀬邦彦とワイルド・ワンズ
梓みちよ
ピンキーとキラーズ
ザ・タイガース
伊東ゆかり
江利チエミ
西郷輝彦
田辺昭知とザ・スパイダース
坂本九

インファントは、園まり、江利チエミさん出演の日に観ました。

名古屋名鉄ホール3日間公演「ザ・ピーナッツ故郷に帰る

大阪梅田コマ一ヶ月公演「待ってました御両人」

西ドイツ、ババリア・プロ10周年記念ショーに出演

シャボン玉ホリデーの強力裏番組テレビアニメ「サザエさん」放送開始

NHK紅白歌合戦「ウナ・セラ・ディ東京」(11回目出場)紅白第20回記念の放送

1970年(昭和45年)

3.31「ザ・ヒットパレード」放送終了

大阪万博「ドイツ・ナショナルデー」でケスラー姉妹と競演

(渡辺美佐副社長が万博プロデューサー)

東京宝塚劇場「クレージー年忘れ爆笑公演」にゲスト出演

アポロン音楽工業からテープ商品用(オリジナル録音)がリリース

この録音はCDで聴けます

元商品の写真がないが、下記の復刻CDもこの頃の録音と思われる

NHK紅白歌合戦「東京の女」(12回目出場)

1971年(昭和46年)

ロサンゼルスのナイトクラブ「スポット・ライト」出演

アメリカ民音公演

NHK紅白歌合戦「サンフランシスコの女」(13回目出場)

1972年(昭和47年)

日本テレビ「シャボン玉ホリデー」終了(10/1)

アポロン音楽工業からテープ商品用(オリジナル録音)がリリース
元商品の写真がないが、下記の復刻CDもこの頃の録音と思われる

NHK紅白歌合戦「さよならは突然に」(14回目出場)

1973年(昭和48年)

2月26日に同じ双子歌手の「こまどり姉妹さよなら公演」が
浅草国際劇場で開催された年であった。
(後に、こまどり姉妹は昭和58年に歌手活動に復帰する)

東ドイツ:テレビ出演

ザ・ピーナッツ・リサイタル 於:大阪フェスティバル・ホール

日本歌謡大賞・放送音楽特別賞(ザ・ピーナッツ)

初めて「ザ・ピーナッツ個人」に賞が与えられた。
(15年間にわたる歌手活動に対して)

日本レコード大賞制定15周年記念賞(受賞者1ダースで有名無実)

今まで「受賞はしなくとも」レコード大賞に貢献のあった者で、
現在もなお活躍して、歌謡界のアイドルになっている人に対し、
運営委員会の総意で選んだものです。まとめて12人に..という..
(ずいぶんと歌手=ピーナッツに対して失礼な賞ではあります)

NHK紅白歌合戦「ウナ・セラ・ディ東京」(15回目出場)

1974年(昭和49年)

第3回東京音楽祭世界大会「愛のゆくえ」で銀賞受賞

この年の春に渡邊晋社長に引退の意向を告げ、内輪で幕引き路線が来まる。

気になる噂、さよならは微笑んで、お別れですあなた、引退を暗示するような曲が続いている。

NHK紅白歌合戦「ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ」(16回目出場)

1975年(昭和50年)

最後のレコード

引退:NHKホールにてさよなら公演(4月5日)

記念レコード(5枚組)

1978年(昭和53年)

現役時代には発売されなかった「モスラの歌」がシングル・リリース

1980年(昭和55年)

元ザ・ピーナッツ側の希望でリリースを中止していたと思われる
「さよならコンサート」のライブ盤(2枚組)がファンの要望でやっと発売

1982年(昭和57年)

4月4日 秋元近史さん逝去(49歳)

1984年(昭和59年)

4月15日:中年に差し掛かったインファントがやっと結婚出来た(奇跡的) 
翌年の同日(4月15日)にインファントの娘が誕生した。 

4月30日 スマイリー小原さん逝去(63歳)

1987年(昭和62年)

1月31日 渡辺プロダクション社長・渡辺晋さん逝去(59歳)

1993年(平成5年)

9月10日 ハナ肇さん逝去(63歳)(元ザ・ピーナッツは看病に日参したという)

1994年(平成6年)

6月22日 石橋エータローさん逝去(64歳)

1996年(平成8年)

11月5日 安田伸さん逝去(62歳)

2006年(平成18年)

3月21日 宮川泰先生逝去(75歳)

12月20日 青島幸男さん逝去(74歳)

2007年(平成19年)

3月27日 植木等さん逝去(80歳)

2010年(平成22年)

9月11日 谷啓さん逝去(78歳)

2012年(平成24年)

5/21 孫娘-1 ユミちゃん誕生 

6月15日 伊藤エミさん逝去(71歳)

11月10日 桜井センリさん逝去(86歳)

2014年(平成26年)

3/31 孫娘-2 エミちゃん誕生